【師匠シリーズ】怪物「結(後編)」

師匠シリーズ

遠巻きにそれを眺めることしか出来ない私たちが動きを止めているその前で、徐々に犬の立てる物音が小さくなり、やがて湿り気のある呼吸音だけになる。
空腹を収めることが出来たのか、犬は始めとは全く違う緩慢な動きで舌を這わせ、口の周りを舐め始める。見えた訳ではない。
犬は向こうを向いたままだ。ただそういうイメージを抱かせる音がピチャピチャと聞こえている。
そしてひとしきり肉食の余韻を味わった後、犬は一声鳴いて木の幹を回り込むようにして闇に消えていった。

その最後に鳴いた声は気味の悪い声色で、耳にこびり付いたようにいつまでも離れない。
かわいそうに。
と、私の耳には確かにそう聞こえた。
犬の影が見えなくなると住宅街の中の緑地は静けさを取り戻す。

「なんだったの」

おばさんが少女の手を取ったまま声を絞り出し、眼鏡の男が恐る恐る木の根元に近づいていく。

「喰われてる」

そんな言葉に私も首を伸ばすが、そこには黒い血の染みと散らばった羽毛しか残ってはいなかった。

「畸形(きけい)、だったのか?」
自問するように眼鏡の男が口走る。それを受けて、キャップ女が「なわけないだろ」と嘲る。
私もそう思う。畸形だろうがなんだろうが、自然界があんな冒涜的な存在を許すとは思えなかった。
ならば…

「幻覚?」

私の言葉に全員の視線が集まる。

「でも、みんな同じものを見たんだろ。その…くだんみたいなやつを」

「ちょっと待て。あんただけ牛を見たのかよ」

キャップ女が突っかかる。

「ち、違う。じゃあなんて言うんだよ、ああいう人間の顔したやつを」

「そう言えば、人面犬ってのが昔いたねぇ」

とおばさんが少しずれたことを言う。

「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」

キャップ女が両手を広げてみせる。

「言ってたじゃないか」

「かわいそうに、が予言か?。いったい誰がかわいそうだっていうんだ」

その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
ざわざわと葉が揺れる。

そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
脳裏に、何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。この場所に来た理由を忘れるところだった。
とっさに空を見る。

月は、雲に隠れることもなく輝いている。
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。
近い。と思う。

「月はどっちからどっちへ動く?」

と眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。

「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」

とキャップ女が指でアーチを作る。

「あ、でも1時間に何度動くんだっけ?忘れたな。あんた、現役だろ?」

いきなり振られて動揺したが「たぶん、15度」と答える。

「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」

そう言いながら眼鏡の男が指で輪ッかを作って月を覗き込む。

「15度って、どんくらいだ」

輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。

「でもたぶん、近いわね」

とおばさんが真剣な表情で言う。

「手分けして、虱潰しに探すか」

眼鏡の男の提案に、賛同の声は上がらなかった。
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」と自己解決したように溜息をつく。
暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
キャップ女とおばさんが、小声でなにかを話し合っている。眼鏡の男はぶつぶつと独りごとを言っていたが、木の幹に隠れるように寄り添っていた青い眼の少女に向かって「おまえもなんか言えよ」と投げ掛けた。
少女は、身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じてもう一度夢の光景を思い出そうとする。
それは些細なことのようで、また同時にとても重要な意味を持っているような気がする。
どこだ?
揺らめく記憶の海に顔を漬ける。

刃物の感触?

違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。叩かれるドア。
違う。まだ、その前だ。足音。その足音を、母親のものだと知っている。足音は、下から登ってくる…
ハッと顔を上げた。

確かに、足音は下の方から聞こえて来た。何故それをもっと深く考えなかったのか。
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。マンションか、アパートか。
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。マンションなら、部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が聞こえるだろうか。端部屋なら、可能性はある。
でも、例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているようなアパートなら、もっと…

私の視線の先に、それは現れた。
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートがひっそりと佇んでいる。
1階に3部屋、2階にも3部屋。玄関側が道に面している。
ささやかな手すりの向こうにドアが6つ、平面に並んで見える。1階から2階へ上がる階段は、1階の右端のドアの前から2階の左端のドアの前へ伸びている。
赤い錆が浮いた安っぽい鉄製の階段だ。
登れば、カン、カン、とさぞ騒々しい音を立てることだろう。
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。

「なんなのよ」

「待て、そうか、足音か」

「このアパートがそうなのか」

「…」

アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた黄色い電灯の明かりを頼りに、駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。
上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、101から203の数字が殴り書きされている。名前は書かれていない。
そして101と、201、そして203の箱にはチラシの類が溢れんばかりに詰め込まれている。
綺麗に片付けられた番号の部屋には、現在まともに住んでいる入居者がいるということだろう。
2階で綺麗なのは202だけだ。
道理で、母親の足音だと分かったはずだ。階段を登ってくるものは、他にいないのだろう。
同じようにその意味を理解したらしい人たちの息を呑む気配が伝わって来る。
階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、いきなり猫の鳴き声が響いた。
見ると、青い眼の少女の前から1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。敷地の隅に設置されたゴミ置き場らしきスペースだ。黒いビニール袋やダンボールが重ねられている。
青い眼の少女は猫の去ったゴミ置き場から目を逸らさずにじっとしていた。
その異様な気配に気づいた私もそちらに足を向ける。

じっとりと汗が滲み始める。さっき走ったせいばかりではない。
暗い予感に空間がグニャグニャと歪む。私の鼻は微かな臭気を感知していた。
肉の匂い。腐っていく匂い。
ゴミ置き場が近くなったり、遠ざかったりする。雑草が足に絡まって、前に進まない。どこからともなく荒い息遣い。そしてその中に混じって、かわいそうに、かわいそうに、という声が聞こえる。
幻聴だ。雑草も丈が短い。ゴミ置き場も動いたりなんかしない。
理性が、障害をひとつ、ひとつと追い払っていく。
けれど臭気だけは依然としてあった。

ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、スペースの真ん中に捨てられている。
2重、いや3重にでもされているのか、やけにごわごわしている。
誰も息を殺してそれを見つめている。肩が触れないギリギリの距離で、皆が並んでいる。
胸に杭が断続的に打ち込まれているような感じ。手をそこに当てる。見たくない。
でも目を逸らせない。

眼鏡の男が、腰の引けたままゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。さっきの猫の仕業だろうか。
ガサガサという音とともに、中身が月の光の下に現れる。
土気色の肌。
目を閉じたまま、口を半開きにした幼い女の子の顔が、ゴミ袋の破れ目から覗いている。生きている人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間、全身の血が沸騰した。
足が土を蹴り、無意識に階段の方へ駆け出す。
けれど次の瞬間、前に回りこんだ何者かの手に肩を押さえられる。遠慮のない力だった。
目の前に顔が現れる。目深に被ったキャップの下の険しい表情。

「落ち着け」

その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、眼鏡の男がなにか喚きながら駆け抜けようとする。
キャップ女は間髪要れずに右足を引っ掛け、眼鏡の男はその場に転倒した。

「なにするのよ」

とおばさんが叫んで、私の背中を押す。
その力は私の前進しようとする力と併わさり、じりじりとキャップ女は後退を始める。

「落ち着け。なにをする気だ」

なにをする気?決まってる。
報復をしなければいけない。同じ目に遭わせてやる。
子どもをゴミ同然に捨てながら、202号室のドアの向こうにのうのうと生きているあの母親を。

「どきなさいよ」

とおばさんが上ずった声でキャップ女を怒鳴りつける。
すぐ横では眼鏡の男が立ちあがろうとする。
「クソッ」と呻きながら、キャップ女が右足を跳ね上げ、男の顔面を蹴った。
ジャストミートはしなかったが、眼鏡が弾けるように宙に飛んで草むらに消えた。
「うわっ」と、眼鏡の男は両手で顔を押さえる。
足を上げたせいでバランスを崩したキャップ女が体勢を立て直す前に、私は掴まれた肩を振りほどきながら一気に突進した。
一瞬、押し返されるような強い反動があったが、堰が切れるようにその壁が崩れる。
3人が絡み合うようにひっくり返り、勢いあまったキャップ女の側頭部が階段の基部のコンクリートに叩きつけられるのが目に入った。
私も地面に肘を強く打っていた。痛みに顔を顰めるが、すぐに立ちあがろうとする。
でもなにかが太腿の裏に乗っている。邪魔だ。おばさんの胴体か。「アイタタタタ」じゃない。すぐに部屋に行かないと。
この頭を掻き回すざわめきが、どこかに去っていってしまう気がして。
いきなり服を引っ張られた。後ろからだ。
首を廻すと、青い眼の少女が震えながら私の上着を両手で掴んでいる。
頭を振って、なんらかの否定の意を表現しようとしている。

「離せ」

そう口にした瞬間、なにか蛇のようなものが首の根元に絡みついた。
ついで、ぴたりとその本体が私のうなじのあたりに接着する。

「悪いね」

そんな言葉が耳元で囁かれ、絡みついたものが私の首を締め上げる。狙いは気道ではない。頚動脈だ。
とっさに腕を背後に回そうとするが、もっと力の強い別のなにかが私の胴体ごと腕を挟み込む。
意識が遠のいていく。夜空には月が冷え冷えと輝いている。星はあまり見えない。
暗い。月も暗くなっていく。苦しいけれど、少し心地よい。
そこで世界はぶつりと途絶えた。

目が覚めたとき、私はベンチで横になっていた。
額の上に水で濡れたハンカチが乗っている。
指で摘みながら身体を起こすと、銀色の光が目に入った。
公園だ。辺りは暗い。
街灯に照らされた大きな銀杏の木の影がこちらに伸びて来ている。キィキィとブランコが揺れる音がする。

「起きたな」

ブランコが止まり、そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。

「良かった。なかなか気がつかないからどうしようかと思ったのよ」

おばさんがホッとしたような顔で言った。

「だから言ったろ。寝てるだけだって」

キャップ女が疲れたような動きで右手を広げる。
じわじわと記憶が蘇って来た。そうだ。
私は、裸締めで落とされたのだ。彼女に。

私は目を閉じ、ドス黒い感情が身体の中に残っていないのを確認する。
あれほど目標を破壊したかった衝動がすべて体外に流れ出してしまったかのように、すっきりとした気分だった。

「ぼ、僕たちはあの子の思念に同調しすぎたんだ」

と眼鏡の男が言った。

「あ、あやうく、人殺しをさせられるところだった」

「ほんと勘弁して欲しいよ。3対1だったんだから。おっと、あの青い眼のお嬢ちゃんも入れて3
対2か。まあ手荒な真似して悪かったな」

力なく笑うキャップ女に眼鏡の男が頭を下げる。

「いや、おかげで助かった。ありがとう」

その眼鏡のフレームは少し歪んでしまっている。
私はそのとき、キャップ女の頬を伝う黒い筋に気がついた。こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。転倒したときに階段の基部で打った部分か。

「ああ、これか。カスリ傷だ」

「痕にならないといいけど」

とおばさんが心配げに言う。

「他にもいっぱいあるし、いいよ別に」

そんなやり取りを聞きながら、私は肝心なことを思い出した。

「あの子は、どうなったんですか」

一瞬、風が冷たくなる。
キャップ女がゆっくりと口を開く。

「現場維持のまま、撤退して来た。…おい、ここでまたキレんなよ。とにかく、ここから先は警察の仕事だ。わたしたちが動いていい段階は終わったんだ」

あの子を、あの子の死体を、ゴミ袋に入れられた状態のまま放置したのか。
思わずカッとしかける。

「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、そんな選択をした。わたしたちが、この街の人たちが、こうして静かな夜の中にいられるのもそのおかげだ」

目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。

「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すら、あの子はしていたような気がする。もう終わったことだ。招かれざる侵入者は。目を閉じて去るべきだ」

キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。

警告。

そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
ではあの、カラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。
私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない奇妙なものたちが蠢いていることを認めざるを得ないのだろうか。
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかではこんなもの当たるわけないと思っていた。
それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。
100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、私たちの世界のあり方は反転する。そんな期待を持っていたのかも知れない。

『変わってる途中、みたいな』

そうだ。私は変わりつつある。

何故だか、身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るようにその右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、そしてすぐに消え去る。
キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。

「逃がした」

起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。

「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」

誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。

「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。心当たり、あるか」

名指しされて私は混乱する。誰かに見られているような感覚は確かにあった。
先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。いや、その感覚はその前から知っている。
なんだ?視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、微笑が嘲笑に変わって行くような…
私の中にある女の顔が浮かぶ。その女は、私のことはなんでも知っていると言った。
そして私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするようにすべて知っていた。
はっきりとは言わないが、間違いなく。

「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」

キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。

「迷惑なやつなら、シメてやろうか」

強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。私はそれにひとときの間、見とれてしまった。

「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも―」

夜をうろついているから。
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、私たちに背を向けて歩き始めた。

「そういやさ」

思いついたように急に立ち止まって振り向く。

「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」

私たちのようにこの住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
全員が首を横に振る。

「あの、ボケェ」

キャップ女はそう吐き捨てる。

「じゃあこ~んな眉毛の、ゴツイ奴は?」

またみんなの首だけが左右に振られる。

「アンニャロー」

そう言っておかしげに笑い、「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。

「あ、そうそう。ケーサツ、電話しとくから。逃げといた方がいいよ。わたしたちみたいな連中
はこんなことに関わると、めんどくさいだろ。いろいろと」

前を向いたまま、高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ消えて行くのを見届けたあとで、残された私たちは顔を見合わせた。

「ぼ、僕も帰る。明日は朝から会議なんだ。じゃ、じゃあね」

眼鏡の男が踵を返そうとする。その回転がピタリと止まって、もう一度その顔がこちらに向いた。

「僕は、変なものを、よく見るんだけど、お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、なんていうかな。その、もう一人のキミが、いるよね」

ドキッとした。秘密を覗かれた気がして。

「それ、きっと悪いものじゃないから。気にしないでいいと思うよ」
じゃあ、と言って彼は去って行った。

「あら、そう言えばあの外人さんの子どもは?」

おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。次の瞬間、太い幹の裏側にスッと隠れる。

「ちょっと。おうちまで送ってあげるから、わたしと一緒に帰りましょう」

おばさんが木の幹に沿って、裏側に回り込む。まるで眼鏡の男が始めにしたような光景だ。
しかし見つめる私の目の前で、おばさんだけが反対側から出て来る。女の子の姿はない。

「あら? いない」

狐につままれたような顔で木の裏側を見ようとおばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。私の目にもおばさんだけがグルグルと木の周りを回っているようにしか見えない。
女の子は忽然と消えていた。

「なんだったのかしら」

おばさんは立ち止まり首を捻っていたが、気を取り直したように私の方を見た。

「わたし、市内で占い師をしてるから、今度会ったららタダで占ってあげるわよ」

そう言ってウインクをしたあと、痛そうに腰をさすりながら公園の出口へ歩いて行った。

一人残された私は、今までにあった様々な出来事が頭の中に渦を巻いて、軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が、街灯にぶつかって嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、目が回りそうだ。その中でも、ある言葉が重いコントラストで視界に覆い被さってくる。

「救えなかった」

それを口にしてみると、ゴミ袋から覗く土気色の顔がフラッシュバックする。
そして暗い気持ちが、段々と心の奥底に浸透し始める。
ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、死体を隠そうという意思が感じられない。
まるで本当のゴミを捨てるようなあっけなさだ。
どんな家庭で、どんな母親だったのか知らないけれど、精神鑑定とやらでひょっとすると罪に問われなくなるのかも知れない。
子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのかどうかは分からない。
だけど彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が胸の内に湧き始める。
いけない。

顔を上げて、深呼吸をする。呼吸の数だけ、視界がクリアになっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、公園の出口に向かう。そして車止めのそばにとめてあった自転車に跨る。

終わったんだ。全部。

そう呟いて、夜の道を、帰るべき家に向かってハンドルを切った。
雲に隠れたのか、月はもう見えなかった。

疲れ果て、最後の気力を振り絞って自転車を漕いでいた私は、家まであと少しという場所まで来ていた。
すべてが終わったという安心感と、なにもできなかったという無力感で、力が抜けそうになる足を叱咤してどうにか前に進んでいた。
両側に家が立ち並ぶ住宅地だったが、街灯の数が足らないのか、いつも夜に通ると少し心細くなる一角だった。
その暗い夜道の向こうに、緑色の光が見える。公衆電話のボックスだ。

子どものころの経験から、お化けの電話と呼んでいる例の箱。

今、その電話ボックスからヒトを不安にさせるような音が漏れて来ている。
DiLiLiLiLiLiLi…DiLiLiLiLiLiLi…と、息継ぎをするように。
それに気づいたとき、一瞬ドキッとしたがすぐにその正体に思い当たる。
またあの女だ。
私が帰る時間を見計らって、ずっと鳴らしていたのだろうか。
それとも今も、私の行く先をどこかで覗き見ているのだろうか。
どっちにしろ、近所迷惑だ。こんな夜中に。
無視したいのは山々だったが、溜息をついて自転車を降りる。
内側に折れるドアを抜け、箱の中に滑り込む。ベルの音が大きくなった。
緑色の鈍重そうなそのフォルムを一瞥したあと、受話器をフックから外す。そして耳と顎をくっつける。

「もしもし」

私の呼び掛けに、受話器の向こう側で誰かの呼吸音が微かに聞こえた。

「もしもし?」

もう一度繰り返す。耳を澄まして少し待つ。
ようやく、受話器から声が聞こえて来た。

「あなたはだあれ?」

間崎京子じゃない。
一気に緊張した。爪先から頭まで、電流が走り抜ける。

「あなたは誰なのかな。若い子ね。同い年くらいかな」

聞いたことのない声だ。けれど相手は若い女性であることだけは分かる。

「まあいいわ。言うべきことを言うね。…あなたは今、すべてが終わったと思っているわね。でもだめ。終わってないの」

淡々と語る口調は、いったいこの世のものなのだろうか。私の脳が生み出した幻覚ではないという保障は?
なんという名前だったか、あの近所の男の子。お化け電話から声が聞こえると言って怯えて逃げ出した子。私の耳には聞こえなかった。
誰か、今すぐここへ来て、私の代わりに受話器に耳をあててくれないか。

「あなたは死体の顔を見たわね。すっかり血が抜けたみたいに土気色をしていた。いったいどれくらい前に死んだのかしら。6時間?半日?一日?どちらにしても、きっとあなたが駆けつける前からとっくに死んでいたわね。そう、死臭も嗅いだはずよ」

なんだ?なにを言ってる?
なにを、言ってるんだ?

「あなたの、あなたがたの最後に見た夢は、いったい誰の見た光景なんでしょうね」

爪先から頭まで電流の走り抜けた場所に、今度は冷たい金属を流し込まれたような悪寒が発生する。
「終わってないのよ。途絶えたはずの意識に、続きがあった。そのかわいそうな子どもの魂は、肉体の檻から解き放たれて、今は夜の闇を彷徨っているわ。そして少しずつ、とっても恐ろしいものに生まれ変わろうとしている。それは檻の中にあっても街中に手が届くような力を持っていた。名前はまだない。怪物に、名前をつけてはいけない。きっと取り返しのつかないことになるから」

ねえ、聞いてる?

受話器の向こうで誰かが首を傾げる。

「あなたはもう一度それに遭うことになる。そして病いにも似た刻印を押され、真綿で締められるような苦しみの中に身を置くことになる。忘れないで。今夜出会った人たちがきっと助けになるでしょう。顔をよく覚えておくことね。あ、でもだめ。一人はいなくなる。『代が替わる』のね」

なにを言ってるんだ、いったい。

「わたしにも分からないのよ。ただこんな電話を掛けたという記憶があるだけ。夢の中でわたしが話してるのね。それを再現してるのよ。運命が変えられるかどうかは分からない。でも心構えをするってことが、大事になることだってあるでしょう」

クラノキ、と彼女は名乗った。

「顔も知らない人の夢を見るなんて珍しいな。きっといつかあなたとわたしは友だちになるのかも知れないね。そのころのわたしは、今夜の電話のことなんて忘れてしまってるでしょうけど」

じゃあ、お休みなさい。
そう言って電話は切られた。

混乱する頭を抱えて、私は電話ボックスを出る。
夢。まるで夢の中だ。なにが現実なんだろう。
ポルターガイスト現象の焦点だった少女が、エキドナが、怪物たちのマリアが、最期に恐ろしい怪物を産み落としたというのか。
それがやがて私に苦しみをもたらすと?
なんなのだ。どこからどこまでが現実なんだ。
目を閉じて、一秒数えよう。目を開けたら、他愛もなくありふれた土曜日の朝でありますように。

そのときだ。

目を閉じた私の中に、説明しがたい奇妙な感覚が生まれた。
それは言うならば、どこか分からない場所で、なんだか分からないものが、急に大きくなっていくような感覚。
私の五感とは全く関係なく、それが分かるのである。

私は辺りを見回す。離れたところにあったはずの街灯がもう消えてしまって、見えない。
大きくなってる。まだ大きくなってる。
熱を出したときに、布団の中で感じたことのあるような感覚だ。
象くらい?クジラくらい?もっとだ。もっと大きい。ビルくらい?ピラミッドくらい?
もっと。もっと、大きい。

私は訳もなく涙が出そうな感情に襲われた。それは恐怖だろうか。哀しみだろうか。
道の真ん中で空を見上げた。
月が見えない。
大きい。とてつもなく大きい。山よりも。天体よりも。どんなものよりも大きい。
夜に、鱗が生えたような。
呆然と立ち尽くす私の遥か上空を、にび色の魚鱗のようなものが閃いて、音もなく闇の彼方へと消えていった。

薄っすらと目を開けて、シーツの白さにまた目を閉じる。土曜日の朝。カーテンから射し込み、ベッドの上に折り畳まれる、優しい光。
窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。
いったい、スズメはなんのために囀っているのだろう。
ベッドの上に身体を起こす。
この私は昨日までの私だろうか。
あくびをひとつする。髪の毛の中に指を入れる。気分はそんなに悪くない。朝が来たのなら。
『運命が変えられるかどうかは分からない』という言葉が昨日の記憶から蘇り、羽根が生えたように周囲を飛び回り始めた。
もう一度寝そべって、シーツに指で文字を書く。
fate
暫くそれを眺めたあとで、手前にもう一つ文字をくっつけた。
no

それから、私は久しぶりに笑った。

怖い夢は、見なかった気がする。

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