その日の放課後、私は3年生の教室へ向かった。
ポルターガイスト現象の本を貸してくれた先輩に会うためだ。廊下で名前を出して聞いてみるとすぐに教室は分かった。
先輩は私の顔を見るなりオッ、という顔をして手招きをしたが、席まで行くとすぐに両手を顔の前で合わせて謝る。
「ゴメン。今日はこれから部活なんだ」
剣道は止めたんじゃなかったんですか、と聞くと「文科け~い」と言ってトランペットを吹く真似をする。吹奏楽部かなにからしい。
「一つだけ教えてください」
そう言う私に、「ま、座りなさい」と近くの席から椅子を引っ張ってくる。
その周りでは帰り支度をする生徒たちが私を物珍しそうに横目で見ている。
多少は時間をとってくれるようなので、順序立てて聞くことにする。
「先輩の家で起こったポルターガイスト現象は、イタズラでしたか?」
先輩は目を丸くしてから笑う。
「いきなりだな。でも違うよ。私だって驚いてた。ホントに目の前で花が宙に浮かんだりしたんだ」
「じゃあ原因はなんですか?」
「…あの本もう読んだんだ?私に聞くってことは」
頷く。
「まあ、知ってると思うけど、あたしの家って両親が仲良くないワケよ。今も別居してるし。
そんで小学4年生のころって、一番バチバチやりあってた時期なのよ。家の中でも顔あわせれば喧嘩ばっかり。子どもの目の前で酷い口論してたんだから。
まるであたしがそこに居ないみたいに」
私のイメージの中で、シルエットの男と女がいがみ合っている。
そしてその傍らには10歳くらいの少女が怯えた表情で身体を縮ませている。
「超能力だか心霊現象だか知らないけど、たぶん原因はあたしなんだろうと思う。今となっては、だけど」
「じゃあ。どうやってそれが収まったんですか」
「昨日言わなかったっけ?祈祷師が来たの。家に。そんで、ウンジャラナンジャラ、エイヤーってやったわけよ。そしたら変なことはほとんどなくなったな」
「祈祷師がポルターガイストを鎮めたんですか」
「…なんかいじわるになったね、あなた。分かってるクセに。たぶん、満足したんだと思うよ。あたしが。『親がここまでやってくれた』って。今でも覚えてるもん。両親が二人とも、祈祷師の後ろで必死になって手を合わせて拝んでんの。それで、お祈りが終わった後にあたしの頭を抱いて『これで大丈夫だ』って二人して言うの。それであたしもなんだかホッとして、ああこれで大丈夫なんだ、って思った。最初は二人ともラップ音とか、お皿が割れたりしたこととか、なんでもないことみたいに無視してたのよ。気味が悪いもんだから、気のせいだ、見てない、聞いてないってね。それをきっとそのころのあたしは、自分を無視されたみたいに感じてたのね。だから余計に酷くなっていったんだと思う」
結局、思春期の子どもが起こすイタズラと同じなのだ、と私は思った。
自分を見て欲しくて、構って欲しくて、とんでもないことをしでかすのだ。
それで怒られることが分かっていながら、しないではいられない。
それはアイデンティティの芽生えと深く関係している部分だからなのだろう。自分が自分であるために、身近な他者の視線が必要なのだ。
「どうしてこんなことが気になるの」
先輩の目が私の目に向いている。
先輩もこの街を騒がせている怪現象の噂くらい聞いているだろう。
それが、たった一人の人間が焦点となっているポルターガイスト現象なのだと聞かされたら、笑うだろうか。
私はそれに答えないまま、別のことを言った。
「先輩が見たっていう怖い夢は、もしかしてお母さんを殺す夢ですか」
空気が変わった。おっとりとして優しげだった目元が険しくなる。
「どうして知ってるの」
その迫力に呑まれそうになりながら、私は言葉を繋ぐ。
「先輩が言っていた、『ありえない夢』って、別居していていないはずのお母さんを、家の玄関で刺し殺す夢だったんでしょう」
ガタン、と椅子が鳴って先輩が立ち上がる。
「あなた、占いが好きとか言ってたわね。そんなこと、勝手に占ったの?」
しまった。怒らせた。
ポルターガイスト現象の焦点となったことのある人間に、あの夢はどう映ったのか。それを聞いてみたかっただけなのだ。
そこになにかヒントが隠されていると思って。
けれど先輩は私の言葉を完全に誤解し、修正が効きそうにない雰囲気だ。
いや、誤解ではないのだろう。他人に触れられたくない部分を土足で踏みにじったのは事実なのだから。
「ごめんなさい」
私は深々と頭を下げる。
「もういいでしょう。部活、行くから」
先輩のその言葉に私は引き下がらざるを得なかった。
知らない人ばかりの3年生の教室の廊下を俯いて帰る。足が重い。
(今度、ちゃんと謝らなきゃ)
と思う。
そういえば占いなんて暫くしていないことに気がつく。
間崎京子はどうやって真相に近づいたのだろう。またタロット占いでもしたのだろうか?
それとも私のように目と耳を使って情報を集め、推理を重ねていったのか。
5時間目の休み時間に教室を覗いてみたが、あいつは席にいなかった。朝、廊下ですれ違ったので多分また早退だろう。
そういえばすれ違い様に「母親を殺す夢を見たか」と問い掛けたとき、あいつは「見てない」と言った。
遅刻しそうだったので、去っていく後姿を引き止めはしなかったが、あれは本当だったのだろうか。
確かにあいつの家は地図上のオレンジの円の端の方にあり、まだ見た夢を思い出せない人たちを表す緑色の点が存在するエリアの中なのではあったが、この不思議な現象が単に距離によるアンテナの精度だけに依存している訳ではないのは明らかだ。
1年生のフロアに戻った私は、まだ帰宅せず残っている他のクラスの生徒たちから出来るだけの情報を得る。
そして地図を蛍光ペンで埋めていった。
やはりだ。赤、青、緑という夢に関する3つの色はバームクーヘンのようにはっきりエリアで別れているけれど、中にはオレンジの円の外周にあたる緑のエリアの中にぽつりと青い点があったり、青のエリアに赤い点があったりしている。
そういう子に追加取材を試みるといずれも霊的な体験をよくするという言質が取れた。
この私自身、木曜日に初めて見た夢を覚えていたのに、住んでいる家は金曜日を表す青い点のある半径エリアにあるのだ。
おそらく、直観だか、霊感だかのイレギュラー的な個人の能力もここには影響している。
それを踏まえて、考える。あの間崎京子がまだ夢を思い出せない緑の点のひとつなどで収まっているものだろうか。
分からない。あの女独特の、得体の知れない感じのバックボーンがなんなのか、私にはまだ分からないのだから。
廊下や教室に人影もまばらになったころ、私はようやく蛍光ペンを置いた。
結局、高野志穂の他に、木曜日以前から夢を覚えていた人はいなかった。
高野志穂の家の近所に住んでいる子は居たが、その子は怖い夢を見ていることさえ気づいていなかった。
まあ、いい。出来る限りの精度は上げた。
地図に落とされたボールペンの丸をもう一度見つめる。
急ごう。
地図を鞄に仕舞い、私は校舎を後にする。
早足で歩き、一度家に帰って自転車を手に入れる。
サドルに跨りながら空を見上げるとまだ陽は落ちていなかった。
さあ、行こう。そう呟いてペダルを漕ぎ出す。
途中、思いついて公衆電話に寄ろうとした。
しかしちょうど通り道にあった公衆電話は例の「お化けの電話」だ。なんとなく嫌だったので、少し遠回りして別の公衆電話へ向かう。
ほどなくして電話ボックスにたどり着き、自転車を脇に止めて、中に入って受話器を上げる。
テレホンカードを入れて、覚えている番号をプッシュする。
コール音が数回鳴ってから相手が出た。いないだろうと思って、留守番電話に入れるつもりだったのに。
仕方がないので、忙しいから今日は会えないということを伝える。
案の定、ケンカになった。毎週金曜日に会う約束をしていたのに、これで2週連続私からドタキャンしてしまった。
だからと言って別に浮気をしているワケではない。止むに止まれぬ事情があるのだから。
逆に私へのあてつけのように、今夜は女を買うなどと口にしたことの方がよほど許せない。
「死ね」と言って電話を切った。
電話ボックスを出たときは頭に血が上り冷静さを欠いていたが、しばらく自転車を漕いでいると次第に我に返ってくる。
いけない。方向が違う。
自転車のカゴから地図を取り出して確認する。この辺りはまだ青のエリアだ。ハンドルを切って方向を修正した。
立ち漕ぎで先を急ぐ。
景色がヒュンヒュンと過ぎ去っていく。
その中へ溶けていくように、涙がひと筋だけ流れて消えていった。
ホントに、私はなにをやっているのだろう。
駄目だ。このところ、心と身体のバランスを崩している。ちょっとしたことで落ち込んだり、悩んだり。今もこんな訳の分からないことでいつの間にか必死になっている。
いったい私はどうしてしまったのか。
『あなた、ちょっと変わったね』
と昨日の夜先輩は言った。
高校に入ってから私は変わり始めてしまったらしい。何故なのだろう。
剣道部を続けていた方が良かったかも知れない。
そう思いながら自転車を漕ぎ続ける。
気がつくと私は赤のエリアに入っていた。そしてその最深部までは目と鼻の先だった。ただのありふれた住宅街だ。今はなんの不吉な印象も受けない。
なのに緊張してしまうのは頭で考えてしまうからなのだろう。
三差路の角を曲がったとき、私は心臓が止まるほど驚いた。
コンクリート塀に電信柱が無造作に立てかけられている。元あったと思しき場所には穴が開いていて、そこからまるで力任せに引き抜かれたかのような痕跡が地面のひび割れとなって現れていた。
電線の角度が変わって片方はピンと張り、もう片方はたわんでブラブラと揺れている。
まるで子どもがおもちゃの箱庭で遊んでいるような現実離れした光景だった。
目に見えない巨大な手が空から降ってくるような錯覚を覚えて私は思わず身体を仰け反らせる。
聞き集めた怪現象の中にこんなものがあったはずだ。でもこれは多分別件だろう。
全く誰もこの異変に気づいた様子はない。誰かにここでこうしているのを見られたらと思うと煩わしくなり、すぐに自転車を発進させた。
高野志穂の家はそこから5分と掛からなかった。
わりと新しい住宅が並んでいる一角の、青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。
家の前に自転車をとめて私は腕時計を見る。
彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、まだ部活から帰っていない時間のはずだ。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
インターフォンから「はあい」という声がして、暫し待つと玄関のドアが開いた。
高野志穂に良く似た小柄な女性が顔を覗かせる。
母親らしい。
「あら。どなた」
そう言いながらドアを開け放ち、こちらに歩み寄ってくる。
内側にチェーンは…ない。
目線の動きを悟られないように素早く確認した後、私は出来る限りのよそいきの声を出した。
「志穂さんはいらっしゃいますか」
「あら、お友だち?珍しいわねぇ。でもゴメンなさい。まだ帰ってないのよ。
…どうしましょう。ウチに上がって待ってくださる?散らかってるけど」
「いえ、いいんです。ちょっと近く来たので寄っただけですから。また来ます」
そう言って私は頭を下げ、申し訳なさそうな母親にヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。
「さようなら」
家を辞する挨拶として、適当だったのか分からない。ああいうときはなんと言うのだろう。お休みなさい、かな。でも少し時間帯が早いか。
そんなことを考えながら角を曲がるまで背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。
あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。
根拠のない自信だが、エキドナの母親であればたぶん一度顔を見れば分かるはずだ。
さあこれからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。
住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。
もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。
やむを得ず、カンでぶつかってみることにした。
それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴を鳴らして回った。
表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこしくなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。
するとたいていの家では母親が出て来て「志穂さんって、ひょっとして高野さんの所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じなかった。
応対してくれる主婦もごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭内で子どもとなにか問題が起きていないかなどと聞いた方が良いのだろうか、と考えたがどうしてもそれは出来そうになかった。
クラスメートならともかく、初対面の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの図太い神経を私は持ち合わせていないのだった。
日が暮れたころ、私は疲れ果ててコンクリート塀に背中をもたれさせていた。
駄目だ。
なんの手掛かりも得られなかった。
範囲が広すぎてどこまで回っていいのかも分からない。
慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気もする。
「もう帰ろ」
そう呟いてヨロヨロと立ち上がる。
自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思う。
どんな方法があるのか全く名案が浮かばないままで疲れた足を叱咤しながらペダルを漕ぐ。
帰り道、日の落ちた住宅街にパトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のある辺りだ。
ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうかと考えた。
電信柱や並木が引き抜かれた事件は明らかに器物損壊だろう。当然犯人を捜しているはずだ。
もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。
聞き込みのプロである彼らが人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。母親に殺意を抱く少女を。
でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと分かる。
私だって信じられないのだから。
街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。
パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に私はその道を避けて少し遠回りしながら帰路に着いた。
家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。
心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事をする。
なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。
些細な口喧嘩でもそれがエスカレートすることを恐れていたのかも知れない。
自分の部屋を見回しながらクッションに腰を下ろし溜息をつく。
小さなテーブルの上には水曜日に買った『世界の怪奇現象ファイル』が伏せられている。
その周囲には昨日先輩に借りたポルターガイスト現象に関連するオカルト雑誌の類が乱雑に転がっている。
そしてその横の本棚には中学時代に買い集めた占いに関する本が所狭しと並んでいた。
勉強している形跡のない勉強机の上には怪しげな石ころ…
なんて部屋だ。
我ながら顔を手で覆いたくなる。
今時の女子高生の部屋としては「惨状」とも言うべき有様を複雑な気持ちで眺めていると、ふいにテーブルの下に落ちている物に気がついた。
紙袋だ。
デパートの包装がしてある。
なんだっけ、と思いながらなんの気なしにそれを手に取り、封をしているシールを剥がす。
中からは鋏が出て来た。
緑色の、ありふれた鋏。
私はそれを見た瞬間、氷で身体を締め付けられるようなジワジワとした不安感に襲われた。
なんだこれは?
鋏だ。ただの鋏。
いつ買った?
そう、あれは石の雨が降った水曜日。
デパートで『世界の怪奇現象ファイル』を手に入れたときに一緒に買った物だ。
待て、おかしいぞ。思い出せ。
そもそも私はデパートにその本を買いに行ったのではない。鋏を買いに行ったのだ。
石の雨の現場を見た後、その近くの商店街の雑貨店で売り切れていたので、わざわざ足を伸ばして…
ドキンドキンと心臓が脈打つ。
「鋏を買わないといけない気がしていた」
そのときは。確かに。
何故?
思い出せない。
その鋏を買って帰った日、私はそんな物を買ったことも忘れてこうして放り出している。
要らない物をどうして買ったんだろう?
急に頭の中に夢の記憶がフラッシュバックし始めた。
夢の中で私は足音を聞く。
そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる…
吐き気がして、口元を押さえる。
刃物だ。あの夢の中で自分が持っている刃物はなんだ?
もやもやして、握っている感覚が思い出せない。
ただキラリと輝いた瞬間だけが脳裏に焼きついている。
あれが、鋏だったんじゃないのか。
最悪の想像が頭の中を駆け巡る。
夢の中で少女になった私は鋏で母親に切りつけた。
その思い出せなかった記憶が潜在意識の奥底で私の行動を縛り付け、半ば無意識のうちに新しい鋏を購入させたのだろうか。
だとしたら…
私は立ち上がり、鋏を手に部屋を飛び出して「ちょっと外、行く」と居間の方に一声叫んでから玄関を出た。
自転車に乗って駆け出す。
途中通り過ぎたゴミ捨て場に鋏を投げ捨てる。
「ちくしょう」
自分のバカさ加減に心底腹を立てていた。
外は暗い。何時だ?まだ店は開いている時間か?
気が逸ってペダルを踏み外しそうになる。
人気の少ない近くの商店街にはまだポツリポツリと明かりが灯っていた。
自転車をとめ、子どものころからよく来ていた雑貨屋に飛び込む。
息を切らしてやって来た私に驚いた顔で、店のおばちゃんが近寄って来る。
「なにが要るの?」
その言葉に、息を整えながらようやく私は「はさみ」と言う。
するとおばちゃんは申し訳なさそうな顔になって、「ごめんねぇ。ちょうど売り切れてるのよ」と言った。
想像していたこととは言え、ゾクリと鳥肌が立つ感覚に襲われる。
「誰か、大口で買ってったの?」
「ううん。今週はぽつぽつ売れてて昨日在庫がなくなっちゃったから、注文したとこ。明日には
入ると思うけど…」
どんな人が買っていったのかと聞いてみたが、若者もいれば年配の人もいたそうだ。
「どうする?明日来るなら取っとくけど」
と聞くおばちゃんに
「いい。急ぎだから他を探してみる」
と言って店を出る。
少し足を伸ばし、私は鋏を置いてそうな店を片っ端から見て回った。
店仕舞いをした後の店もあったが、閉じかけたシャッターから強引に潜り込み
「鋏を探してるんですが」
と言った。
そのすべての店で同じ答えが返って来た。
『売れ切れ』
と。
最後に私は一昨日の水曜日に鋏と本を買ったデパートに向かった。
閉店時間まぎわでまばらになった客の中を走り、まだ開いている雑貨コーナーに飛び込む。
中ほどにあった日用品の棚には異様な光景が広がっていた。
ありとあらゆる日用雑貨が立ち並ぶなか、格子状のラックの一部だけがすっぽりと抜け落ちている。
カッターも、鉛筆も、定規も、消しゴムも、修正液も、ステープルも、コンパスでさえ複数品目が取り揃えられているのに。
鋏だけがなかった。ただのひとつも。
私はその棚の前に立ち尽し、生唾を飲み込んでいた。
鋏が街から消えている!
いや、消えているのではない。その懐の奥深くに隠されて、使われるときをじっと待っているのだ。
それは今日かも知れないし、明日かも知れない。
夢を見ている少女が母親を殺すことを決めた日に、私たちはその殺意に囚われて己の母親にその刃を向けることになるのかも知れない。
どうしたらいい?どうすればいいんだ?
自らに繰り返し問い掛けながら私は家に帰った。するべきことが見つからない。
けれど今動かなかったら取り返しのつかないことになるかも知れない。
どうすればいいのか。するべきことが見つからない。
巡る思考を持て余して、どういう道順で帰ったのかも定かではない。
兎にも角にも帰り着き、玄関からコソコソと入ると母親に見つかった。
「どこ行ってたの。もう知らないから、勝手に食べなさい」
台所にはラップで包まれた料理が置かれている。
食欲は無かったが、無理やりにでもお腹に詰め込んだ。体力こそが気力の源だ。あまり良くない頭にも栄養を少しだけでも回さないといけない。
食べ終わってお風呂に入る。
今日は学校が終わってから休む暇がないほど駆け回っていた。それも夏日のうだるような暑さの中を。
それでも湯船に浸かることはせず、ほとんど行水で汗だけを流して早々に上がる。
次に入る妹と脱衣場ですれ違ったとき、「お姉ちゃん、お風呂出るの早っ。乙女じゃな~い」とからかわれた。
一発頭をどついてから自分の部屋に戻る。
ドアを閉め、机の引き出しに入れてあった愛用のタロットカードを取り出す。
それを手にしたままじっと考える。
時計の音がチッチッチッ、と部屋に響く。濡れた髪がピタリと頬にくっつく。
駄目だな。
私ごときの占いが通用する状況ではない。もっと早い段階ならば、この事態に至るまでにするべきことの指針にはなったかも知れないけれど。
今必要なのは、エキドナを、母親に殺意を抱く少女を探し出すための具体的な方法だ。
あるいは、探し出さずともこの事態を解決するだけの力だ。
私は机の上に放り投げた鞄から同級生の住所録を取り出す。
今日の昼間、カラフルな地図を完成させるのに活躍した資料だ。
パラパラと頁を捲り、間崎京子の連絡先を探し当てる。そこに書いてある電話番号をメモしてから部屋を出て、階段を降りてから1階の廊下に置いてある電話に向かう。
良かった。誰もいない。居間の方からはテレビの音が漏れてきている。
メモに書かれた番号を押して、コール音を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…
「はい」
ななつめか、やっつめで相手が出た。聞き覚えのある声だ。ホッとする。良かった。
家族が出たらどうしようかと思っていた。それどころか、使用人のような人が電話口に出ることさえ想定して緊張していたのだ。
彼女の妙に気どった喋り方などから、前近代的なお屋敷のような家を想像していた。そんな家にはきっと彼女のことを「お嬢様」などと呼ぶ使用人がいるに違いないのだ。
だがひとまずその想像は脇に置くことにする。
「あの、私、ヤマナカだけど。同じ学年の」
少しどもりながら、あまり親しくもないのにいきなり電話してしまったことを詫びる。
電話口の向こうの間崎京子は平然とした声で、気にしなくて良い、電話してくれて嬉しいという旨の言葉を綺麗な発音で告げる。
どう切り出そうか迷っていると、彼女はこう言った。
「エキドナを探したいのね」
ドキッとする。
私のイメージの中で間崎京子は何度もその単語を口にしていたが、現実に耳にするのは初めてだった。
ギリシャ神話の怪物たちの名前を挙げて共通点を探せと言った彼女の謎掛けが、本当にこの街に起こりつつある怪現象を理解した上でそれを端的に表現したものだったのだと、私は改めて確信する。
いったいこの女は、なにをどこまで掴んでいるのか。
母親を殺す夢を見ていないというその彼女が何故あんなに早い時点で、街を騒がせている怪現象がたった一人の人間によって起こされているのだと推理出来たのか。
私のようにあちこちを駆けずり回っている様子もないのに、怪現象の正体を恐ろしく強大なポルターガイスト現象だと見抜いた上で、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるな、などという忠告を私にしている。
どうしてこんなにまで事態を把握できているのだろう。
「…そうだ。これからなにが起こるのか、おまえなら知っているだろう。それを止めたい。力を貸してくれ」
「なにが起こるの?」
間崎京子は澄ました声でそう問い掛けてくる。
私は儀式的なものと割り切って、今日一日で私がしたこと、そして知ったことを話して聞かせた。
「そんなことがあったの」
面白そうにそう言った後、彼女の呼吸音が急に乱れる。
受話器から口を離した気配がして、そのすぐ後にコン、コン、と咳き込む微かな音が聞こえた。
「どうした」
私の呼び掛けに、少しして「大丈夫。ちょっとね」という返事が返って来る。
今更ながら彼女が病欠や早退の多い生徒だったことを思い出す。
彼女は私よりも背が高いけれど、線が細く、透き通るようなその白い肌も含め、一見して病弱そうなイメージを抱かせるような容姿をしている。
そう言えば今日も早引けをしていたな。
そう思ったとき、つい先ほどの「駆けずり回っている様子もないのに、どうしてこんなに事態の真相を掴んでいるのか」という疑問がもう一度浮き上がってくる。
もし。もし、だ。
もし彼女の病欠や体調が悪いからという理由の早退がすべて嘘だとしたならば。
彼女には、十分な時間がある。
水曜日に昼前からエスケープした以外は、真面目に授業に出ていた私(授業を受ける態度はともかくとして)以上に、彼女にはこの街で起こりつつあることを調べる時間があったのかも知れないのだ。
もしそうだとしたならば、今の、まるで同情を誘うような咳は逆に私の中に猜疑心を芽生えさせただけだ。
だが分からない。すべては憶測だ。けれど少なくとも、この女に気を許してはいけない、ということだけはもう一度肝に銘じることが出来た。
「エキドナを探したい。知っていることをすべて話してくれ」
単刀直入に懇願した。だがこれも駆け引きの一部だ。彼女の一見意味不明な言動は聞く者を戸惑わせるが、その実、真理の、ある側面を語っているということがある。
短い付き合いだが、それは良く分かっているつもりだ。彼女は無意味な嘘をつかない。
嘘をつくとしても、それは真実の裏地に沿って出る言葉なのだ。意味は必ずある。
それを逃さないように聞き取れば良いのだ。
「……探してどうするの」
止めたい。
電話の冒頭で口にしたその言葉をもう一度繰り返そうとして、本当にそうだろうかと自分に問い掛け、そして胸の内側から現れた別の言葉を紡ぐ。
「見つけたい」
「それは探すことと同義ではないの」
「言葉遊びのつもりはない。ただ、本当にそう思っただけだ」
「面白いわね、あなた」
それから僅かな沈黙。
電話のある静かな廊下とは対照的に、居間の方からは相変わらずテレビの音が流れて来ている。
「正直に言って、あなたの鋏の話は驚いたわ。人を殺す夢を見ても、それが現実の人間の行動に影響を与えるなんて思ってもみなかった」
考えろ。これは嘘か、真か。
押し黙る私を尻目に彼女は続ける。
「わたしも夢の中で握っているはずの刃物の感触が思い出せない。あれが鋏だとするなら、確かにすべての辻褄が合うわね」
嘘だ!
これは嘘だ。
間崎京子は、そんな夢を見ていないと言ったはずだ。それとも今朝私にそう言ってから、この夜までの間に彼女は眠り、エキドナが見る夢とシンクロして母親殺しを追体験したというのか。
クス、クス、クス…
コン、コン、コン…
忍び笑いと、咳の音が交互に聞こえる。
「わたしは、嘘なんてついてないわ。ただあなたが『母親を殺す夢を見たか』と聞くから『見てない』と言っただけよ」
「それのどこが嘘じゃないって言うんだ。おまえも刃物で切りつける夢を見ているじゃないか」
声を荒げかける私に、淡々とした声が諌めるように降って来る。
「わたしが見ていた夢は、『知らない女を殺す夢』よ」
なに?
予想外の答えに私は一瞬思考停止状態に陥る。
「月曜日だったかしら、それとも火曜日だったかな?チェーンを外して、ドアから首を出す見覚えのない女の首筋に刃物で切りつける夢を見たのよ。一度見てからは毎日。他のみんなはそれが母親の顔だと思っているみたいね」
どういうことだ?
間崎京子だけは、夢の中で殺した相手が母親ではないと言うのか?何故だ。
「おかしいと思わない?夢に出てくるチェーンのついたドアだとか、それに手を伸ばして背伸びをする感覚は、みんな実際の自分のものではない、言うならば個を超越した共通言語として出て来るのに、殺した相手の顔だけは現実の自分の母親の顔だなんて」
待て。それについては考えたことがある。私はこう思ったのだ。
『…それは母親というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない』
と。
「チェーンのついたドア」や「届かない手」という記号が、そのままの姿でもその本質を見失われないのに対し、「母親」という記号が、もし仮に別の知らない女の顔で現れたとしたならば、それは本質を喪失し私たちにその意味を理解させることさえ出来ないに違いない。
「母親」であるために、母親の仮面を被っていたのだ。
では、間崎京子の見た「知らない女」とは…
「わたしに、母親を殺す夢なんて見られるわけがないわ。だって、わたしはママの顔、知らないんですもの」
静かに、彼女はそう言った。
「ママはわたしが生まれる時に死んだわ。家には写真も残っていない」
受話器から淡々と陶器が鳴るような声が聞こえて来る。
「見たことはなくても、あんな醜い顔の女が、わたしのママではないことくらい分かるわ」
自分の美貌のことを暗に言いながら、それを鼻にかけるような嫌味さを全く感じさせない自然な口調だった。
間崎京子のケースは、母親と別居しているというポルターガイスト現象の経験者でもあった先輩とは、明らかにその背景が異なっている。
先輩は家にいないはずの母親を殺す夢を、『ありえない夢』と称したけれど、殺す相手の顔は「母親」の顔として認識している。
今現実に母親がいなくとも、その顔を知ってさえいれば良いのだ。
間崎京子はその顔すら知らず、「知らない女」が「母親」という意味を持つための仮面を被せることが出来なかったのだ。
ならば、間崎京子の夢に現れた女こそ、エキドナに殺意を抱かせた母親そのものなのではないのか。
「母親」という仮面の下の、素顔だ。
「そう。その女が、怪物たちの母親の母親。罪深いガイアね」
捕まえた。
ついに捕まえた。
間崎京子にさえ協力してもらえれば、エキドナは見つけられる。
あるいは、今日訪ねて回った家々の主婦たちの中の誰かがその母親だったのかも知れない。
「その女の顔は、まだはっきり覚えているか」
拝むような私の問い掛けに、彼女は優しい口調で答えた。
「覚えているわ。似顔絵を描きましょうか。わたし、絵は得意なのよ」
良し。良し!
私は思わず受話器にキスしそうになる。案外いいヤツじゃないか。間崎京子は。
そんなことを頭の中で叫んでいた。後にして思うと、我ながら単純だったと思う。
「どっちにしても明日ね。こんな夜には探せないわ。明日、絵を描いていくから」
またコン、コン、という咳が漏れる。
「ああ、ありがとう。無理しなくてもいから。身体に気をつけて」
じゃあ、明日学校で。
そう言って私は受話器を置いた。
明日だ。
明日には見つけられる。目を閉じて、それをイメージする。
「ムリしなくてもいいから。カラダに気をつけてぇ」
声に振り向くと、妹が廊下でくねくねと身体を揺らしながら私の物真似をしていた。
オトコとの電話だと邪推しているようだ。エキドナだとか母親殺しだとかの怪しげな部分は聞かれていないらしい。
「もう寝ろ、ガキ」
「自分だってまだ子どもじゃん」
「キャミソール返せ」
「あ、やだ、もうちょい貸して」
そんなくだらないやりとりをしたあと、私は部屋に戻った。
疲れた。
ばたりとベッドに倒れ込む。
転がって仰向けに姿勢を変えてから、今日あったことを順番に思い出してみる。
2度目の『母親を殺す夢』。学校での情報収集。円形の地図の完成。先輩を怒らせたこと。中心地の聞き込み。無駄足。買ったままの鋏。鋏の消えた街。間崎京子との電話…
(そういえば、先輩の部屋にも鋏があったな)
先輩がサイ・ババの真似をしていたときに手に持っていた鋏。
テーブルの上に無造作に置かれていたものだったけれど、手のひらから(私には服の裾からにしか見えなかったが)宝石や灰を出してみせるという奇蹟の再現をするのに、隠しにくい鋏は適切な物だっただろうか。
消しゴムやなんかの方が、よほど上手く出来るだろう。
(新品に見えたけど、あの鋏もなんとなく買ったのかな)
何故それが要るのか、深く考えもしないで…
ふと、電話で注意した方がいいだろうか、と思った。
いや、駄目だな。夕方に怒らせたばかりだし、こんなに遅い時間に電話してまた変な話をしたのでは、きっとまともに聞いてくれないだろう。
あれ?そう言えば、私もまだ持ってたな、鋏。
机の引き出しのどこかに、昔から使ってるやつがあるはずだ。
あれも捨てて来た方が良かったかも。
あ…でも眠いや…
明日にしよう…明日に…
眠りに落ちた。
暗い。暗い気分。泥の底に沈んでいく感じ。
私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
暗い気持ち。殺したい気持ち。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。そしてロックをカチリと捻る。
手には硬い物。私の手に合う、小さな刃物。
ドアが開けられ、ぬうっと、青白い顔が覗く。
母親の顔。見たことのない表情。見たくない表情。
ドアの向こう、母親の背中越しに月。真っ黒いビルのシルエットに半分隠れている。
どこかから空気が漏れているような音がする。それは私の息なのだろうか。
いや、私の身体にはきっとどこかに知らない穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているんだろう。
私は入り込んでくる顔に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ手の中にある硬い物を握り締め、暗い気持ちをもっと暗くして。
「……ッ」
悲鳴が聞こえた。
それは私が上げたのだと気づく。
動悸がする。息が苦しい。
夢だ。夢を見ていた。
身体を起こす。ベッドの上。
天井から降り注ぐ光が眩しい。明かりがついたままだ。
時計を見る。夜中の1時半。服を着たままいつの間にか寝てしまっていた。
手にはじっとりと汗をかいている。
まだなにか握っているような感覚がある。
何度か手のひらを開いたり閉じたりしてみる。
辺りを見回すが、特に異変はない。粟立つような寒気だけが身体を覆っている。
そのとき、床に置いたラジオから奇妙な声が聞こえてきた。
ひどく間延びした音で、笑っているような感じ。
夜の家は静まり返っている。カーテンを閉めた2階の窓の向こうからもなんの音も聞こえない。
ただラジオだけが、間延びした笑い声を響かせている。
私は思わずコンセントに走り寄り、コードを引き抜いた。
ぶつりとラジオは黙る。
つけてない。私は眠る前に、ラジオなんてつけてない。
なんなのだ、これは。
家電製品の異常。まるでポルターガイスト現象だ。
私は机の引き出しを恐る恐る開け、乱雑に詰め込まれた文房具の中から鋏を探し出した。
中学時代から使っている小ぶりな鋏。手に持ってみたが、特におかしな所はない。
ひとまずホッとして引き出しを閉める。
どういうことだろう。
今までの夢は明け方、目覚める直前に見る明晰な夢だった。
他の人たちの体験談も一様に同じだ。
しかし今のは1回目か2回目のレム睡眠時の夢だ。
今までだって本当はこの、眠りについてあまり経っていない時間帯にも同じ夢を見ていたのかも知れない。ただ忘れてしまっているだけで。
でもさっきのリアルさはなんだ?明らかに今までの夢とは違う。鋏を握る感触もはっきり残っている。
私は左手で自分の顔を触った。そしてこう思う。
(こっちが夢なんてことはないよな)
母親に鋏を突き立てようとしている少女こそが本当の私で、今こうして考えている私の方が彼女の見ている夢なんていうことは…
なんだっけ、こういうの。漢文の授業で聞いたな。胡蝶の夢、だったか。
ありえない、と首を振る。
だが少なくとも、今までの夢とは緊迫感が違った。恐怖心のあまり途中で目覚めてしまったのだから。
(夢…だよな)
私は恐ろしい想像をし始めていた。真夏の夜の部屋の中が冷たくなって来たような錯覚を覚える。
これまでのは、焦点となっているその少女の見ていた殺意に満ちた夢が夜の街に漏れ出したもので。
今見たのは、現実のドス黒い殺意がリアルタイムで私の頭に干渉していたのではないか、という想像を。
だとしたら、さっきの光景の続きは?
もし夢を見ながら彼女の殺意に同調していた街中の人間たちが、私のようにあのタイミングで目覚めていなかったとしたら?
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をぐるぐると回った。
油断なのか。もう明日にも手が届くと思ってだらしなく寝てしまった私のせいなのか。
でもなにが出来たって言うんだ。あんな遅くに間崎京子の家まで行って似顔絵を描かせ、それを手にまたあの住宅街を聞き込みすれば良かったのか?
せめて家の場所が特定できれば…
そう考えたとき、私は視線を斜め下に向けた。
待て。
ドアの向こうの景色。月が半分隠れていたビルのシルエット。夢の中の視線。
あのビルは知っているぞ。
市内に住む人間ならきっと誰でも知っている。一番高いビルなのだから。
ビルの位置と、月の位置。それが分かるなら、場所が、それらが玄関の中からドア越しに見えている家が、ほぼ特定出来るかも知れない!
私は部屋を飛び出した。
そして階段を降りながら、眠っている家族を起こさないようにその勢いを緩める。
家の中は静まり返っていて、父親のいびきだけが微かに聞こえてくる。
私は玄関に向かおうとした足を止め、客間の方を覗いてみた。
いつもは2階で寝ている母親だが、最近は寝苦しいからと言って風通しの良い客間で寝ているのだ。
襖をそっと開け、豆電球の下で掛け布団が規則正しく上下しているのを確認する。
良かった。何事もなくて。
そして踵を返そうとしたとき、暗がりの中、鈍く光るものに気がついた。
それは私の右手に握られている。さっきから右手が妙に不自由な感じがしていた。
なのに、何故かそれに気づかず、目に入らず、あるいは目を逸らし、気づかないふりをして、ずっとここまで持って来ていた。
鋏だ。
机の引き出しを閉めながら、鋏は仕舞わなかったのだ。右手に持ったままで。
逆再生のようにその記憶が蘇る。
全身の毛が逆立つような寒気が走り、ついで、目の前が暗くなるような眩暈がして、私は鋏をその場に落っことした。
鋏は畳の上に小さな音を立てて転がり、私は後も見ずに玄関の方へ駆け出す。叫びたい衝動を必死で堪える。
ギィ、というやけに大きな音とともにドアが開き、湿り気を含んだ生暖かい夜気が頬を撫でた。
外は暗い。
玄関口に据え置きの懐中電灯を手にして、駐車場へ向かう。そして自転車のカゴにそれを放り込んで、サドルを跨ぐ。
始めはゆっくり、そしてすぐに力を込めて、ぐん、と加速する。
(鋏を持ってた!無意識に!)
混乱する頭を風にぶつける。いや、風がぶつかって来るのか。
私は今、自分がしていることが、すべて自分自身の意思によるものなのか分からなくなっていた。
もうたくさんだ。こんなこと。もうたくさんだ。
寝静まる夜の街並みを突っ切って自転車を漕ぎ続ける。空は晴れていて、遥か高い所にあるわずかな雲が月の光に映えている。
この同じ空の下に、目に見えない殺意の手が、無数の枝を伸ばすように今も蠢いているのか。
それに触られないように、身を捩りながら、前へ前へと漕ぎ進む。
と――――
耳の奥に、風の音とは違うなにかが聞こえて来た。
聞き覚えのあるような、ないような、音。
人を不安な気持ちにさせる音。
夜の、電話の音だ。
自転車のスピードを落とす私の目の前に、暗い街灯がぽつんとあるその向こう、公衆電話のボックスが現れた。
音はそのボックスから漏れている。
DiLiLiLiLiLiLi…DiLiLiLiLiLiLi…と、息継ぎをするようにその音は続く。
ばっく、ばっく、と心臓が脈打つ。
お化けの電話だ。
そんな言葉が頭のどこかで聞こえる。
誰もいない、夜の電話ボックス。
私は自転車を脇に止め、なにかに魅入られたようにフラフラとそれに近づいていく自分を、どこか現実ではないような気持ちで、まるで他人ごとのように眺めていた。
擦れるような音を立てて内側に折れるドア。中に入ると自然にドアは閉まり、緑色の電話機が天井の蛍光灯に照らされながら、不快な音を発している。
私はそろそろと右手を伸ばし、受話器を握り締める。
フックの上る音がして、Lin、という余韻を最後に呼び出し音は途絶える。
この受話器の向こうにいるのは誰だろう?
そんなぼんやりした思考とは別に、心臓は高速で動き続けている。
「もしもし」
声が掠れた。もう一度言う。
「もしもし」
受話器の向こうで、笑うような気配があった。
「…行ってはいけない」
この声は。
そう思った瞬間、脳の機能が再起動を始める。
間崎京子だ。この向こうにいるのは。
「鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩いたものが、ヒトの中でなにをしたか、わかって?」
冷え冷えとした声が、ノイズとともに響いてくる。
「何故だ。どうやってここに掛けた」
沈黙。
「お前も見たのか。あの夢を。行くなとはどういうことだ」
コン、コン、コン、とせせら笑うような咳が聞こえる。
「…その電話機の左下を見て」
言われた通り視線を落とす。そこには銀色のシールが張ってあり、電話番号が記されている。この電話機の番号だろうか。
「みんな案外知らないのね。公衆電話にだって、外から掛けられるわ」
その言葉を聞きながら、私は頭がクラクラし始めた。思考のバランスが崩れるような感覚。
この電話の向こうにいるのは、生身の人間なのか?それとも、人の世界には属さないなにかなのか。
「夢を見て、あなたがそこへ向かうことはすぐに分かったのよ。そしたら、その電話ボックスの前を通るでしょう。一言だけ、注意したくて、掛けたの」
「どうして番号を知っていた」
「あなたのことなら、なんでも知ってるわ」
あらかじめ調べておいたということか。いつ役に立つとも知れないこんな公衆電話の番号まで。
「行ってはいけない。わたしも、少し甘く見ていた」
「なにをだ」
再び沈黙。微かな呼吸音。
「でもだめね。あなたは行く。だから、わたしは祈っているわ。無事でありますようにと」
通話が切れた。
ツー、ツー、という音が右耳にリフレインする。
私は最後に、言おうとしていた。電話を切られる前に、急いで言おうとしていた。
そのことに愕然とする。
いっしょにきて。
そう言おうとしていたのだ。
頼るもののないこの夜の闇の中を、共に歩く誰かの肩が、欲しかった。
受話器をフックに戻し、電話ボックスを出る。
少し離れた所にある街灯が、瞬きをし始める。消えかけているのか。
私は自転車のハンドルを握る。
行こう。一人でも、夢の続きを知るために。
自転車は加速する。耳の形に沿って風がくるくると回り、複雑な音の中に私を閉じ込める。
振り向いても電話ボックスはもう見えなくなった。離れて行くに従って、さっきの電話が本当にあった出来事なのか分からなくなる。
何度目かの角を曲がり、しばらく進むと道路の真ん中になにかが置かれていることに気がついた。
速度を緩めて目を凝らすと、それはコーンだった。工事現場によくある、あの円錐形をしたもの。パイロン、というのだったか。
道路の両側には民家のコンクリート塀が並んでいる。ずっと遠くまで。アスファルトの上に、ただ場違いに派手な黄色と黒のコーンがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。
当然、向こうには工事の痕跡すらない。誰かのイタズラだろうか。
その横をすり抜けて、さらに進む。
500メートルほど行くとまた道路の真ん中に三角のシルエットが現れた。またコーンだ。
避けて突っ切ると、今度は10秒ほどで次のコーンが出現する。通り過ぎると、またすぐに次のコーンが…
それは奇妙な光景だった。
人影もなく、誰も通らない深夜の住宅街に、何らかの危険があることを示す物が整然と並んでいるのだ。
だが行けども行けどもなにもない。ただコーンだけが道に無造作に置かれている。
段々と薄気味悪くなって来た。あまり考えないようにして、ホイールの回転だけに意識を集中しようとする。
だが、その背の高いシルエットを見たときには心構えがなかった分、全身に衝撃が走った。
今度はコーンではない。細くて長く、頭の部分が丸い。道でよく見るものだが、それが真夜中の道路の真ん中にある光景は、まるでこの世のものではないような違和感があった。
『進入禁止』を表す道路標識が、そのコンクリートの土台ごと引っこ抜かれて道路の上に置かれているのだ。
周囲を見回しても元あったと思しき穴は見つからない。いったい誰が、そしてどこから運んで来たというのか。
ゾクゾクする肩を押さえながら、『進入禁止』されているその向こう側へ通り抜ける。
これもポルターガイスト現象なのか?
しかしこれまでに起きた怪現象たちとは、明らかにその性質が異なっている気がする。
石の雨や、電信柱や並木が引き抜かれた事件、中身をぶちまけられる本棚やビルの奇妙な停電などは、意図のようなものを感じさせない、ある意味純粋なイタズラのような印象を受けたが、この道に置かれたコーンや道路標識は、その統一された意味といい、執拗さといい、何者かの意図がほの見えるのである。
く・る・な。
その3音を、私は頭の中で再生する。
ポルターガイスト現象の現れ方が変わった。それが何故なのか分からない。
現れ方が変わったと言うよりも、「ステージが上った」と言うべきなのか。
これでは、RSPK、反復性偶発性念力などという代物ではない。もっと恐ろしいなにか…
私は吐く息に力を込める。目は前方を強く見据える。怖気づいてはいけない。
ビュンビュンと景色は過ぎ去り、放課後に訪れたオレンジの円の中心地である住宅街へ到着する。
結局、道路標識はあれ以降出現しなかった。言わば最後の警告だった訳か。
私は夜空を仰ぎ、月の光に照らされたビルの影を探す。
この街で一番高い影だ。
そして月がそのビルに半分隠れるような視点を求めて、息を殺しながら自転車をゆっくりと進める。
動くものは誰もいない。ほとんどの家が寝静まって明かりも漏れていない。
様々な形の屋根が、黒々とした威容を四方に広げている。
やがて私は背の低い垣根の前に行き着いた。街にぽっかりと開いた穴のような空間。
向こうには銀色の街灯が見える。遮蔽物のない場所を選んで通るのか、風が強くなった気がする。
公園だ。
私は胸の中に渦巻き始めた言いようのない予感とともに、自転車を入り口にとめ、スタンドを下ろしてから公園の中に足を踏み入れた。
靴を柔らかく押し返す土の感触。銀色の光に暗く浮かび上がる遊具たち。見上げても月はビルに隠れていない。
ここではない。
けれど今、私の視線の先には、街灯の下に立つ二つの人影があるのだ。
ごくり、と口の中のわずかな水分を飲み込む。
人影たちも近づいて行く私に明らかに気づいていた。こちらを見つめている複数の視線を確かに感じる。
風が耳元に唸りを上げて通り過ぎた。
「また来たよ」
影の一つが口を開いた。
「どうなってるんだ」
ようやくその姿形が見えて来た。
眼鏡を掛けた男だ。白いシャツにスラックス。ネクタイこそしていないが、サラリーマンのような風貌だった。
神経質そうなその顔は、30歳くらいだろうか。
「こんな時間に、こんな場所に来るんだから、私たちと同じなんでしょうね」
声は若いが、外見は50過ぎのおばさんだった。地味なカーキ色の上着に、スカート。小太りの体型は、不思議と私の心を和ませた。
「あの、あなたたちは、なにを…」
そこまで言って、言葉に詰まる。
「だから、言ってるでしょ。同じだって。あんたも見たんだろ、アノ夢を」
真横から聞こえたその声に驚いて顔をそちらに向ける。
小さな鉄柵の向こうにブランコがひとつだけあり、そこにもう一人の人物が腰掛けていた。
キィキィと鎖を軋ませながら足で身体を前後に揺すっている。
「あんた、高校生?」
馬鹿にしたような言葉がその口から発せられる。目深にキャップを被っているが、若い女性であることは、声と服装で分かる。
太腿が出たホットパンツにTシャツという、涼しげな格好。あまり上品なようには見えない。
「ま、ここまでたどり着いたってことはタダモノじゃない訳だ」
意味深に笑う。
私の体内の血液が徐々に加熱されていく。
同じなのだ。この人たちは。私と。
彼らは街で起こった怪奇現象と母親殺しの夢の秘密を解いて、ここに集った人間たちなのだ。
得体の知れない不吉さと不安感に駆られて動き回った数日間が、絶対的に個人的な体験だったはずの数日間が、並行する複数の人間の体験と重なっていたということに、歓喜と寒気と、そして昂揚を覚えていた。
「あなた、さっきの夢は、どこまで?」
おばさんがこちらを向いて聞いてきた。私はありのままに話す。
「やっぱり」
少し残念そう。
「みんな同じ所までで目が覚めてるのね」
「も、もういいよ。ここでいつまでも話してたってしょうがないだろ」
眼鏡の男が手を広げて大げさに振った。
「でもねぇ、これ以上はどうやっても探せないのよね」
おばさんが頬に手のひらを当てる。
「あんな、月とビルの位置だけじゃ、ある程度にしか場所を絞れないし、時間経っちゃったから、余計に分かんないのよね」
「こうしてたって、余計分かんなくなるだけじゃないか」
「そうよねえ。取り合えず、近くまで行けばなにか分かるんじゃないかと思ったんだけど…」
そんな言い合いを聞きながら、私の脳裏には先週の漢文の授業で先生が教えてくれた「シップウにケイソウを知る」という言葉が浮かび上がっていた。
確か、強い風が吹いて初めて風に負けない強い草が見分けられるように、世が乱れて初めて能力のある人間が頭角を現すというような意味だったはずだ。
昼間には無数の人々が行き来するこの街で、誰もかれも自分たちのささやかな常識の中で呼吸をしながら暮らしている。
それが例え、日陰を選んで歩く犯罪者であったとしても。
けれど、そんな街でもこうして夜になれば、常識の殻を破り、この世のことわりの裏側をすり抜ける奇妙な人間たちが蠢き出す。
普段は、お互いに道ですれ違っても気づかない。それぞれがそれぞれの個人的な世界を生きている。
それが今はこうして、同じ秘密を求めてここにいるのだ。
のっぺりとした匿名の仮面を外して。
私はそのことに言い知れない胸の高鳴りを覚えていた。
「4人もいたら、なにか良い知恵が浮かんできそうなものなのにね」
おばさんがため息をつく。
キャップ女が鼻で笑うように
「4人だって?5人だろ」
と指をさした。
みんながそちらを見る。大きな銀杏の木がひとつだけ街灯のそばに立ってる。
その木の幹の裏に隠れるように、白い小さな顔がこちらを覗いていた。
私はそれが生きている人間に思えなくて、髪の毛が逆立つようなショックがあった。
けれどその顔が、驚きの表情を浮かべ、恥ずかしそうに木の裏に隠れたのを見て、おや?と思う。
「え?あら。女の子?」
おばさんが甲高い声を上げる。
「お、おいおい。いつからいたんだ。全然気づかなかったぞ」
と眼鏡の男が呟いて、額の汗をハンカチで拭う。
「ねぇ、あなた近所の子?こんな遅くに外に出て、だめじゃないの」
おばさんが優しい声で呼び掛けると、顔を半分だけ出した。10歳くらいだろうか。
「あら、この子、外人さんの子どもかしら」
言われて良く見ると、眼球が青く光っている。街灯の光の加減ではないようだ。
「帰った方がいい。ここは危ない」
眼鏡の男が早口でそう言い、近寄ろうとする。女の子はまた木の裏側に隠れた。
男が腕を前に伸ばしながら、回り込もうとする。
すると、その子はその動きに沿ってぐるぐると反対側に回る。
「あれ、なんだこいつ。なに逃げてんだよ、おい」
眼鏡の男が苛立った声を上げるのを、ブランコに揺られながらキャップ女がせせら笑う。
「あんたロリコン?」
「うるさい」
「ちょっと、やめなさいよ。怯えてるじゃないの」
おばさんが男をなだめる。
「大したものだな。この子、この歳であたしたちと同じモノ見てるんだよ」
キャップ女の口の端が上る。
そんなバカな。こんな小さな子どもが、私と同じことを考えてここまでやって来たというのだろうか。
そう思ったとき、私の耳がある異変をとらえた。
「し」と誰かが短く言う。
息を呑む私たちの耳に、鳥の鳴き声のようなものが聞こえて来た。
ギャアギャアギャア…
カラスだ。
私はとっさにそう思った。公園の中じゃない。
全員が身構える。
鳴き声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
ブランコが錆びた音を立ててキャップ女が降りて来る。
「なんて言ったと思う?」
誰にともなく、そう問い掛ける。
「警戒せよ、だ」
彼女は私の顔を見てそう言った。なぜかデジャヴのようなものを感じた。
足音を殺して、全員が公園の出口に向かう。行動に転じるのが早い。躊躇わない。
私も深呼吸をしてからそれに続く。
公園の敷地を出てから、すぐにアスファルトを擦る靴の音がやけに大きく響くことに気づく。眼鏡の男の革靴だ。みんな足音を殺しているのに。
複数の睨むような視線に気づきもしない様子で、彼は先頭を切って公園に面した道路を右方向へと進む。
月の光に照らされる誰もいない夜の道を、5つの影が走り抜ける。
5つ?
振り向くと、小さな少女が厚手の服をヒラヒラさせながら、少し離れてついて来ている。
青い眼が月光に濡れたように妖しく輝いて見える。
あれも肉体を持った人間なのだろうか。なんだかこの夜の街ではすべてが戯画のように思える。
そしてこれから、なにかもっと恐ろしいものを見てしまうような気がして足を止めたくなる。
それは、昼と地続きの夜を生きる人にはけっして見えないもの。
引き抜かれた道路標識などとはまた違う、自分の中の良識を一部、そして確実に訂正しなくてはならないような、そんなものを。
私はいつのまにか現実と瓜二つの異界に紛れ込んでいるのではないだろうか。
慎重に足を動かしながらそんなことを考える。
細長い緑地が住宅地の区画を分けていて、その一段高い舗装レンガの歩道の上に大きな木が枝を四方に張っていた。
生い茂る葉が月を覆い隠し、その真下に出来た闇に紛れるように小動物の蠢く影が見えた。
立ち止まる私たちの目の前でギャアギャアという不快な声を上げ、その影がふたつ飛び立った。
カラスだ。
2羽は鈍重な翼を振り乱して、あっというまに夜の空へ消えて行く。
私たちは息を潜めてカラスたちがいた場所を覗き込む。暗がりに、それはいる。
ああ。やはりこちらが夢なのかも知れない。私の知っている世界では、こんなことは起きない。
「エエエエエエエ…」
弱弱しい声を搾り出すようにして、身を捩じらせる。それは、まるで巣から落ちてしまったカラスの雛のように見えた。
さっきの2羽が心配して覗き込んでいた両親だろう。
けれどあの悲鳴のような鳴き声は、我が子を案じる親のそれではなかった。
警戒せよ。警戒せよ。この異物を、警戒せよ。
そう言っていたような気がする。
「エエエエエエエ…」
そんな力ない呻きが、ありえないほど小さな人間の顔から漏れる。
赤ん坊のようなその顔の下には、薄汚れた羽毛に包まれたカラスの雛の胴体がくっ付いている。
それは生きていること自体が耐えられない苦痛であるかのように小さな身体をくねらせて、レンガの上を這いずっている。
それを見下ろしている誰もが息を呑み、動けないでいた。
掠れながら呻き声は続く。私の知るそれより、はるかに小さい赤ん坊の顔は、閉じられた目から涙を流しながらクシャクシャと歪んで小刻みに震えている。
やがてその呻き声が少しずつ変調し、聞こえる部分と聞こえない部分が生まれ始める。
「こ、これは、おい、なんだ、これは…」
眼鏡の男が口を押さえて震えている。
「黙りなさい」
その隣でおばさんが短く、しかし強い口調で言う。
風が吹いて頭上の葉がざわめいた。声が聞こえなくなり、私たちは自然と顔を近づける。
「…か…い…に…」
赤ん坊の頭部を持つそれは、呻きながら同じ言葉を繰り返し始めた。
なんと言っている?
耳を澄ますけれど、目に見えない誰かの手がその耳を塞ごうとしている。
いや、その手は私の中の危険を察知する敏感な部分から、伸びているのかも知れない。
でももう遅い。聞こえる。
か・わ・い・そ・う・に。
そう言っているのが、聞こえる。
涙を流し、苦痛に身を悶えさせながらそれは、かわいそうに、かわいそうに、という言葉を繰り返しているのだ。
「くだん、だ」
眼鏡の男が呆然として呟いた。
くだん?
くだんというのは確か、人の顔と牛の身体を持つ化け物のことだ。
生まれてすぐに災いに関する予言を残して死んでしまうという話を聞いたことがある。
人の頭部と、動物の胴体を持っている部分だけしか合っていない。
そう言えば最近、身体が2種類以上の動物で構成された化け物のことを考えたことがあるな。
あれはなんのことだったか。はるか昔のことのように思える。
そうだ。あれは間崎京子の謎掛けだ。
共通点はなに?化け物を生んだのは誰?
思考がぐるぐると回る。
「なにか来る!」
キャップ女の鋭い声に振り向くと、黒い塊がこちらに向かって飛び込んで来た。
一番後ろで屈んでいた青い眼の少女が弾けるようにそれを避け、勢い余って尻餅をつく。
私を含む他の4人も瞬時に身体を反転させて、その体当たりから身をかわす。
黒い塊は荒い息遣いを撒き散らしながら、歯茎を見せて私たちを威嚇するように唸り声を上げる。
犬だ。
首輪もしていない。野犬だ。
目は血走って、焦点が合っていないように見える。
地面に手をついていた私はすぐに立ち上がり、犬から離れる。他の人たちも後ずさりしながら木の下から遠ざかる。
おばさんが尻餅をついてまま動けないでいる少女を抱き起こしながら慌てて逃げ出す。
犬は、離れていく人間には興味を示さずに、舌を垂らしながら木の根元の暗がりへ首を伸ばした。
そして、ぐるるるる、という唸り声と、肉が咀嚼される気持ちの悪い音が聞こえて来る。
「く、喰ってる」
10メートル以上離れた場所から、腰の引けた状態の眼鏡の男が絶句する。
もうその木の下からは人の声は聞こえない。ただ肉と骨が噛み砕かれる音だけが夜陰に篭ったように響いているだけだ。
私はどうしようもなく気分が悪くなり、そちらを正視できないほどの悪寒に全身が震え始めた。
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