俺は、キムさんに辞表を提出して実家に戻った。
はいそうですかと、簡単に辞めさせてもらえる業界ではない。
だが、俺に残された時間は少ない。
俺のために動いてくれている一木氏や榊夫妻とも、シンさんやキムさんとも、二度と会うつもりはなかった。
向こうが何と言おうとも、俺は呪術の世界とは二度と関わりは持たない。そう誓ったのだ。
『定められた日』とやらが近づいた為か、或いは裏切り者の俺に『呪詛』でも仕掛けられているのか……
俺の肉体の変調が確実に始まっていた。
体重がどんどん減少して行き、70kg程あった体重が60kgを切りそうな所まで落ちていた。
キムさん達からのアクションは全くなかった。
それは、不気味なほどだった。
俺は、Pに頼んで姉と妹に監視者を付けた。
キムさん達による拉致を恐れたからだ。
もちろん、そういった事態を防ぐために、他にも手は打ってあった。
俺は、可能な限りマミと行動を共にした。
マミの卒業が目の前に近付いてきた、そんなある日のことだった。
俺は、街中で一人の男に呼び止められた。
キムさんのボディーガードの一人で、同じ空手道場の同門3人組で一番若い徐だった。
徐は、急激に痩せて人相の変わった俺に驚きを隠せない様子だった。
「久しぶりだな、拝み屋」
「徐か……何をしに来た?」
「そういきり立つなよ。別に社長に命令されて来た訳じゃないのだから」
「そうか?」
「判っていると思うが、社長はお前を手放すつもりはない。ただ、暫くお前の自由にさせておけと言っている。俺たちが、お前の家族や友人に手出しすることはない。だから、早まった真似だけはするな」
「判った。お前たちが手出ししてこない限り、俺の方も何もしないよ。約束しよう」
「お前と一緒にいた、あの娘は……あんな小娘のためにお前は?」
「ああ、そうだ。おかしいか?」
「馬鹿げている。お前は社長やシン会長にも気に入られて、期待もされている。俺たちと違って学もあるし、『呪術』って売りもあるからな。黙っていても、あと2・3年もすれば幹部だろ?もう、危ない橋を渡らなくても、金や女がいくらでも自由になる身分じゃないか!何も、あんな小娘に拘らなくても、他にいい女はいくらでもいるだろう。あの娘と一緒になるにしても、良い暮らしができるだろう。今更抜けてどうしようって言うんだ?堅気になってサラリーマンにでもなろうってか?無理だよ、お呼びじゃねえって。俺たちにはツブシなんて効かないんだ。他に行き場なんてないんだよ!」
「そういう問題じゃないんだよ。お前には判らないかもしれないけどな。ぬるま湯に浸かりすぎて感覚が麻痺しているんだ。俺もお前も。異常な世界に安住してしまっているんだよ。独りならそれも良いだろう。でも、異常な世界にどっぷりと浸かりながら、普通の結婚生活や家族生活を送ることはできないよ。俺にはな。熱湯に入るのか、冷水に飛び込むのかは判らないけれど、取り敢えずぬるま湯からは出ることにした。ここまで来るのにウダウダと時間を食ってしまったが、抜けて後悔はないさ」
「判ったよ……、俺はもう何も言わない。……お前、あの娘と一緒になるのか?」
「ああ、そのつもりだ」
「そうか。……それじゃあ、一杯奢らせてくれ。前祝いだ」
「判った。付き合うよ」
ハイペースでグラスを空けながら徐は昔話をした。
権さんに命じられてタイマンを張ったこと、仕事や道場でのこと、そしてアリサのこと……
「拝み屋……今度こそ上手くやれよ。幸せにな」
「ああ、ありがとうな」
そう言って、俺は徐と別れた。
数日後、キムさんのボディーガードで徐の先輩の朴が俺の前に姿を現した。
身構える俺に朴は言った。
「徐の行方を知らないか?」
俺は、徐が俺を訪ねてきたことを話した。
徐の行方は知らないことも。
徐は追われていた。ガード対象の女……大口のクライアントの愛人と駆け落ちしたらしい。
その女は、クライアントの『金庫番』だった。
どうやら、徐の件以外にも、キムさんのビジネスはケチの付き通しらしかった。
俺のことなどに関わっている場合ではないらしい。
俺は『休職扱い』という事だった。
原因は定かではないが、キムさんが急速に『運気』を落としているのは確かだった。
キムさんたちと手を切ろうとして、四苦八苦していたPの方も、纏まった『手切れ金』を払うことで足抜けに成功していた。
完全に焼きが回った状態のキムさん、そしてシンさん達は、その勢力を確実に削り取られていった。
やがて、マミの高校卒業の日がやってきた。
日を改めて、俺は父と母、姉夫婦と妹、そしてP夫妻を呼んで食事会を開いた。
両親とマミ以外の面々は痩せこけた俺の姿に驚きを隠せないようだった。
この時の体重は55kgを割っていたか。
義兄は、そんな俺を心配し「近いうちに検査に来なさい」と言ってくれた。
だが、普通の医者にこの症状の原因は判らないだろうし、治療も不可能だろう。
俺の体調自体はすこぶる良好で、チェンフィですら、俺の症状の原因は判らなかったからだ。
「卒業おめでとう、マミちゃん!」皆がマミを祝福した。
「ありがとう!……XXさん、約束、覚えていますよね?」
「ああ。でも、俺はもう、結構いい年のオッサンだぞ?」
「いいです。私、多分、ファザコンだと思うし」
「そのうちメタボって、腹とかも出てくるぞ」
「むしろ、最近痩せすぎだと思います」
「オヤジを見れば判るだろうけど、確実にハゲるぞ?」
「構いません。今だって坊主頭じゃないですか」
「最近加齢臭が……」
「そうですか?わたし、XXさんの匂い、好きですよ」
「……」
「もう良いですよね?……私、今でも、あの時よりもXXさんのこと大好きです。だから……」
「待て、そこから先は俺が言うから」
俺は深呼吸をして気持ちを落ち着けた。これほど緊張するものだとは!
「マミ、俺と結婚してくれるか?」
「はい。でも条件があります」
「条件?」
「はい。私、XXさんと、おじさん達みたいな夫婦になるのが夢だったんです」
「ちょっと待て!『アレ』はどこに出しても恥ずかしいバカップルだぞ?」
「おいおい、親を捕まえてアレとか、馬鹿はないだろ!」
「それに、マミちゃん、おじさん、おばさんじゃなくて、お父さん、お母さんでしょ?マザー・イン・ローだけどね」
「うん……ずっと、そう呼びたかった。ありがとう、お父さん、お母さん」
「それで、条件って?」
「毎日、私も言いますから、愛してるって言ってください」
「……お、おう」
「それと、毎日3回……5回はキスして下さい」
「……恥ずかしいな」
「お父さんは、毎日してますよ?」
「それは、あの二人がおかしいんだ!」
「私は、そうして欲しいんです。してくれますよね?」
「判ったよ。仰せのままに」
「ありがとう。私、こんなにワガママだけどXXさんの奥さんにしてくれますか?」
「もちろんだ!」
……それは、至福の瞬間だった。
このまま時が永遠に止まって欲しい、そう、俺は思った。
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