俺がイサムを伴って実家に戻ってから2・3週間ほど経った日のことだった。
部屋のドアをノックする音で俺は目覚めた。
安眠を妨害され、眠い目をこすりながら俺はドアを開けた。
「誰よ?」
浅黒い肌をした小柄な女が立っていた。
ラーナ……俺が住んでいたボロアパートの住人の一人、アナンドの彼女だ。
二人は同じ職場に勤務している。
「カラテの兄さん、アナンドが大変なの!」
アナンドの部屋に行くと、彼は脂汗を流しながらガタガタ震えていた。
体温計で熱を計ると38度を超えている。
「どうした?」
前の晩、自転車で出勤中に、突然の雨に降られてずぶ濡れになってしまったらしい。
職場まで自転車で30分ほど。
着替えるのが面倒なので、作業服のまま出てしまったようだ。
ずぶ濡れの格好のまま吹き曝しの現場で一晩作業をしていたそうだ。
「この季節に……アホだな。風邪を引くに決まってるだろ。待ってな、薬があるから」
すぐに医者に連れて行ってやりたいところだが、健康保険に入っていない外国人の辛いところだ。
薬を飲ませ、お粥を作って喰わせて、「とりあえず寝ろ」と言ってから、俺ももうひと寝入りすることにした。
何時間寝たのだろうか?
俺は微妙な振動と、誰かの激しい息遣いで目が覚めた。……またか、あいつら。
俺は壁に蹴りを入れて怒鳴った。
「病人が、昼間から盛ってんじゃねえ!」
ボロアパートの壁は薄く、隣の音や声は筒抜けの丸聞こえだ。
時計を見ると、昼の13時を過ぎたくらいか。
30分ほどして、ラーナがノックもせずにいきなり部屋のドアを開けた。
「なんだよ!」
「何をアワテテルの?ソロ活動中だった?」
「するか、アホ!」
「暇なら買い物に付き合って。ゴハンご馳走するよ!」
俺はラーナの買い物に付き合った。
いったい何日分買ったのか判らないが、ダンボールに纏めた食材を俺がアパートまで持って歩いた。
病み上がりのアナンドに食わせるのはどうかとも思ったが、ラーナが作ったマトンのカレー風味の炒め物は、若干香辛料がきつく癖があったが旨かった。
やがて日が落ち、夜になると、昨晩よりも激しく冷たい雨が降り始めた。
23時前くらいだったか、雨が少し弱まったのを見計らって「もう帰るよ」と言って、ラーナがアナンドの部屋を出て行った。
「俺たちも、そろそろ寝ようや」と言って、ビールやチューハイの空き缶を水洗いしてビニール袋に詰めていると、帰ったはずのラーナが慌てて戻ってきた。
「外に誰かいるよ!凄い目で睨まれた。怖いよ!」
こんな土砂降りの深夜に……変質者か何かか?
あまり柄の良い地域じゃないからな……
俺は、表からアパートの2階を睨み付けていると言う『男』を追い払い、徒歩で10分ほどの場所にあるラーナと彼女の女友達の部屋までラーナを送って行くことにした。
ラーナが言ったように、角の電柱のところに誰かが傘もささずに立っている。
「あれか?」
「うん!」
ラーナの慌てた様子に勝手に『男』決め付けていたが、どうも様子が違う。
女?
電柱の所まで近づいてみて、俺は驚いた。
「え?マミ?何で?」
血の気の失せた白い肌に濡れた髪が張り付き、唇は紫色だ。
冷え切った体が震えている。
俺はマミを部屋に上げた。
何時間立っていたのか知らないが、全身ずぶ濡れで、靴の中まで水浸しだった。
直ぐに熱い風呂に入れてやりたいところだが、アパートは風呂なしだ。
15分ほどの場所にある銭湯も、もう閉まってしまっているだろう。
デイバックに入れてきた着替えも全滅だった。
仕方がないので、俺の下着とTシャツ、ジャージを着させた。
マミが着替えている間、俺はマナーモードのまま部屋に置きっ放しになっていた携帯をチェックした。
実家の母から10数件の着信が入っていた。
電話すると1コール鳴るか鳴らないかのタイミングで母が出た。
「俺だけど?」
「何度も電話したのよ。何していたの?」
「ごめん」
「そんなことより、大変なの。マミちゃんが昨日から帰ってこないのよ!」
「ああ……マミなら、俺のところにいるよ。雨の中、ずぶ濡れでずっと立ってたみたいで……何があった?」
母の話では、俺とイサムが帰ったあと、俺の両親は早速マミに『養女』の話をしたらしい。
マミは「返事は少し待って欲しい」と答えたようだ。
両親も「返事は急がなくていいから、ゆっくり考えて欲しい」と言ったそうだ。
それからマミは、口には出さないが相当悩んでいたようだ。
そして、前日の晩、学校から帰ってくる時刻になってもマミは帰宅しなかった。
夜通し眠らずに帰宅を待った父と母は、朝から心当たりに片っ端から連絡を入れてマミを探していたらしい。
朝晩は結構冷え込む季節にはなっていたが暖房器具はまだ出していなかった。
出しても燃料がない。
「温まるよ」と言って、ラーナがスパイスの効いたネパール風のミルクティーを持ってきた。
「何か、食べられそうか?」と聞いてみたが、マミは小刻みに震えながら首を横に振った。
床を用意して「とりあえず寝ちまいな」と言って布団に入れたが、身体の冷え切ったマミは震えたまま寝付けない様子だった。
「かわいそうに、完全に凍えちゃってるよ。人肌で温めてあげないと、ダメだよ」とラーナが言った。
「人肌って……俺が?」
「他にいないでしょう?」
ラーナの指示に従って、マミをTシャツとトランクス一枚の姿にして、同じような格好になった俺はマミと布団に潜り込んだ。
「嫌かもしれないけど、我慢してくれ」そう言うと、マミは俺の背中に手を回し抱きついてきた。
氷のように身体の芯まで冷え切った感じのマミだったが、腕枕しながら背中を摩っていると、徐々に体が温まり、やがて静かに寝息を立て始めた。
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