『クジラは大きな口を開けて小魚を食べる。その時に誤って人間が口の中に入ったら、クジラは人間を食べるだろうか』
小学4年生のとき。
友人の関口君とそんな話をしていた。
僕はクジラは人間を食べるだろうと主張した。
しかし関口君は首を振る。
「クジラは自分が食べられる食糧の魚と人間とを区別できるから、人間を食べたりはしないよ」
いやしかしあれだけ大きな体を持ってるんだから、人ひとりくらい簡単に丸のみできるだろうと僕は食い下がる。
「じゃあ君は、口の中に虫が入ってきたら食べるのか」
自転車を漕いでいるときに真正面からカナブンが飛んできて僕の口の中に飛び込んだことがある。
その時は「えいや」と勢いのままカナブンを呑み込んでやったが、一般論として人は虫を食べない。
なるほど、と思って僕は納得した。
大学2年の夏休みのこと。
仲の良い男女友人数名と海に繰り出すことになった。
電車を数本乗り継いで、地方の薄寂れた海沿いの町にやってきた。
観光シーズンということもあり人気のある場所はわざと避けてここを選んだのだった。
海岸沿いの国道から見下ろした砂浜には今にも崩れそうではあるが看板が立っている木造の海の家、黒々とした砂浜と黒々とした海。真っ青な空とカンカンと照らす太陽によってなんとか夏らしさを演出している。
テレビで見るようなコバルトブルーの海、真っ白な砂浜とは程遠い光景ではあるが、これもまた同じ名を持つ”海”である。
名前は偉大だ。
そんな寂れた海でも楽しめるだけ僕らも大学生という名前を持つ子供でしかなかった。
早速、水着に着替えて砂浜を走り回る。
一緒に来ていた女性陣がビキニタイプの水着ではなく上下が一体となった地味なタイプだったことに少々ガッカリしながらも僕らは海水浴を楽しんだ。
ひとしきり遊び回って、いつの間にか日が暮れ始めていた。
海の家のすぐ裏手側の民宿をとっていたのでみなでそこへ向かう。
男女別の部屋に通されて古い和室に腰を下ろす。
部屋の隅には、すでに薄型のテレビが主流であったのにも関わらず奥行きのあるブラウン管テレビが備え付けてあった。
これも”民宿感”の演出のためなのかもしれないが、テレビが映るのか否かは定かではない。
もとよりわざわざ海に来てまでテレビを見るつもりもない。
今ではプラスチック製の扇風機が多いが、そこには金属の部品がやたら多い昔ながらの扇風機が置いていた。
『古い扇風機から発火し、一家全焼の火事』
そんな記事を新聞で読んだ気がするが、「まあ近くは海だから」という訳のわからない理由で気にしないことにした。
僕たちは女性陣を部屋に呼んでお酒を飲みながら持ち寄ったトランプで遊んだ。
僕はアルコールに弱いのですぐに酔っぱらってしまった。
友人たちに酔い覚ましに夜風を浴びてくると言って民宿を出る。
外にでると昼間とは打って変わって涼しい風が頬を撫でた。
空にはまん丸い月だけが浮かんでいた。
僕は道路を渡って崩れかけのコンクリートの階段から砂浜のほうへ降りて行った。
酔いのまわった頭に夜風と波の音が心地いい。
ふと砂浜を見ると、誰かが座っているのが見えた。
近づいてみてみると、僕たちと一緒に来た南海さんという女の子だった。
彼女は膝を抱えて海を眺めている。
そういえば先ほどみながトランプに興じているときにいつの間にか彼女の姿が消えていた。
一人抜け出してここにいたらしい。
声をかけると、彼女はちらりとこちらを振り返った。
長い黒い髪が夜風になびく。
昼間あれだけ外にいたのに全く焼けていない白い肌が月明かりに照らされていた。
夜の海で男女が二人きり。
少しロマンチックな展開に心がどぎまぎした。
僕は意味もなくテンションが上がり「ちょっと海に入ってくる」と意味不明なかっこつけをして砂浜を駆け出した。
「やめたほうがいいよ」
南海さんが後ろから鋭い声で僕を制した。
いつもの彼女と違う少し低い声に僕は驚いて振り返った。
「大丈夫だよ。浅いところしか行かないから」とへらへら笑いながら言うが彼女の表情は硬かった。
「うん。でもやめたほうがいい」
彼女の白い指が海を指さす。
僕はその先を目で追った。
視線の先に黒々とした海が広がっている。
その中にさらに真っ黒とした半円状の何かが浮かんでいた。
波打ち際から数十メートル先。
直径はおよそ2~3メートルほどに見えた。
月明かりに照らされているにもかかわらず、それが何なのか判然としない。
「あれはクジラだよクジラ」と僕は笑って答えたが、果たしてこんな浅瀬にクジラが来るだろうか。
「クジラは食べ物と人間を区別できるから、僕が海に入っても食べられはしないよ」
昔誰かがそう語っていたのを思い出して彼女にそう言った。
「ううん。あれはね。人を食べるの。いや人しか食べない」
僕は南海さんが冗談のつもりでそう言っているんだと思ったが、月光に照らされた彼女の表情はなお無表情でただただ視線の先の”それ”をじっと見据えていた。
「私ね。昔あれに食べられたことがあるんだ。子供の時。家族で海水浴に来たんだけど。浮き輪を使って泳いでてふと足元を見下ろしたら」
”それ”がいたのだという。
「大きな口を開けて、でも人の口とは違って、大きな穴みたいだった。でもそれが口であることはわかったんだ」
そして彼女は”食べられた”らしい。
しかしそれと同時に大きな波が彼女を襲った。
それで彼女は何とか”それ”の口から抜け出すことができた。
気づいたときには砂浜で横になっていた。
お父さんとお母さんが心配した表情で彼女を見下ろしていたそうだ。
「あのまま食べられていたら、波が来なかったら、多分私は死んでいたんだと思う。そのときは助かった。でも、でもね。あの瞬間、おそらく私は私の一部を失ったような気がするんだ。それが何なのかわからない。でも心の中で何かが欠落している感覚がその時からずっと続いてるの」
―― あれはね。人を食べるの。
彼女のいう”人”というものが”魂”と同義であることに僕は気づいた。
「戻ろう」
僕は彼女の手を取った。
「返してほしい。私の一部を」
か細い声で彼女は呟いた。
僕は振り返らなかった。
後ろから”それ”の真っ黒な両目がじっと僕らの背中を見つめている。
そんなイメージが浮かんで背筋が冷たくなる。
夜空に浮かんでいた月はいつの間にか雲に隠れていた。
翌朝。
眠い目をこすって布団から起きだしてみなで民宿の狭いテーブルを囲って朝食を食べた。
今日の昼頃に電車で帰る予定だったためそれまでどうするかを話し合った。
必然また海で遊ぼうという案が持ち上がる。
僕は昨晩のことを思い出し南海さんの顔を盗み見る。
彼女は別段なんの反応も示さずにもくもくと箸を運んでいる。
「今日は町中を散策しよう」と僕が提案してみる。
さすがに昨日のアレを見たあとだと海に入る気分にはならなかった。
友人たちも昨日散々海で遊んだこともあって、僕の意見に賛成してくれた。
朝食後、とりわけ観光スポットもない町中を散策する。
申し訳程度にあるお土産屋さんに寄り、ここで作られた特産品ではないクッキーの箱を一つ購入した。
メンバーの誰も知らない偉人の小さな記念館に入ってみた。
この海岸線の町で生まれ、K帝国大学で教鞭をとったのちに老後はこの町に戻り町長を務めた人物らしい。
享年67歳。
海難事故により逝去。
ドキリとした。
僕たちしかいないホームで帰りの電車を待っていると南海さんがそっと僕に耳打ちした。
「昨日はごめんね。〇〇君が酔ってたから少しからかってみたんだ。あれ、全部嘘だから」
彼女は、
そういうことにしたらしい。
それから10年の月日が経った。
たまに当時のメンバーと会う機会があるとその時の話になる。
「今思うと海汚かったよな」
「でもあぁいうのが、意外と楽しいんだよな」
「あそこの民宿の風呂狭かったよな」
「飯は意外とうまかったな。海沿いなのに海産物全然なかったけど」
彼らの口からは光り輝いていた若かりしころの楽しい思い出が語られる。
僕だけはそれと一緒に、不可思議なあの夜の体験が脳裏に映る。
そして帰りの電車の車窓から外を眺める彼女の綺麗な横顔が、何か物憂げに広大な海を見つめている姿。
夏になるとそんなことを思い出す。
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