人間の顔

洒落怖・怪談(管理人著)

先日、街を歩いていた時に不意に肩を叩かれた。

振り返ると整髪剤で髪をかき上げたやたら肩幅ががっちりとした若い男性がにこやかに笑っている。

「久しぶり」

誰だっただろうか…という僕の心中を察したのか彼はあからさまに片方の眉を上げて呆れたように続けた。

「俺だよマツウラだよ。前の会社で一緒だっただろ?」

そこまで言われて思い出した。
そうだ。
以前勤めていた会社にマツウラ君という名の同期がいた。
聞けば僕がその会社を辞めたあと半年後に彼も別の会社へ転職していたらしい。

「お互い頑張ろうぜ」

爽やかな笑顔で手を振る彼を見送りながらふと違和感を覚えた。

果たして彼は、あのような”顔”だっただろうか。

僕は幼少期から人の顔を覚えるのが不得意だった。
というより個々の人間を識別するのに”顔”を使わなかった。

学校から帰ってきて家にいる大きな女性は母。
あとから家に帰ってきて僕のマンガを奪っていくのが兄。
夜に仕事から帰宅してくる大きな男性は父。

隣の席のやたら鼻水ばかりすすっているのは吉田君だし、女子なのに男子グループに混ざって長い休み時間にサッカーに繰り出すのは長瀬さんだし、下校時に家の方向が同じだからいつも一緒に帰る年中半袖半ズボンの男子は谷君だ。

僕は子どもの頃からどういうわけか人間の顔ではなく、むしろその人それぞれの顔以外の属性によって個人個人を判別していた。

今でも、当時のことを思い出そうにも、クラスメイト一人一人がどういった子どもであったか詳細を思い出せるが、なぜだかその”顔”だけは思いだせない。

『相貌失認(そうぼうしつにん)』またの名『失顔症』
脳障害の一つで、他人の顔の認識ができなくなる病気の一つである。
先天的に人の顔を認識する能力が欠落している場合や、後天的に脳梗塞や脳腫瘍によって個人を判別する脳の部分が損傷することによって起こるらしい。

たしかこの病気を題材にした映画を観たことがある。

しかし僕の場合はこの病気ではない。
子供の頃からテレビで芸能人が出てくれば誰が誰だか判別できたし、映画を観れば「これはあの映画でも出てきた人だな」ということもわかった。

「芸能人や映画俳優」と「学校のクラスメイトや家族」との違いは、自分と接する機会が多いか否か、彼らを形作っている個人情報が多いか否かということだろう。

故に僕は「学校のクラスメイトや家族」の場合は顔以外の情報から個々人を判別できた、だから”たまたま”顔による識別をしなかっただけだ。
そう考えている。

同じ会社に勤めていたマツウラ君も同じことなんだろう。

先日、また道端で人に話しかけられた。

「あれ?先輩じゃないですか!奇遇ですね」

例によって、目の前にいるやたら細身の男性が誰だったのか試案していると

「えーひどい。忘れちゃったんですか?大学の時同じサークルだった…」

『マツウラ』

彼はそう名乗った。

ああ確かに学生時代のスポーツ系サークルにマツウラ君という後輩がいた。
スポーツ系を名乗るわりに飲み会ばかりしていたサークルだったので、それほど体育会系らしからぬ体つきをしているメンバーも多かった。
彼はその中の筆頭だった。

聞けば僕の勤めている会社と一駅も離れていない零細企業に勤めているらしい。

「今度また飲みにいきましょう」

そう言って頭を下げる彼を見送りながらふと違和感を覚えた。

果たして彼は、あのような”顔”だっただろうか。

相貌失認ではないにしろ一度病院で診てもらおうかと真剣に考えたが、この程度で医者に掛かっていては病院側も迷惑だろう。
心配性で少し記憶力の低い人と言われて終わりな気がする。

数日後、日曜日に街中をぶらついているとマツウラ君を見かけた。

よかった。
ちゃんと覚えている。

今度はこちらから声をかけてみる。

また会ったな。世界は狭い。などと言って笑いかけると声をかけた男性は僕の顔を見るなり怪訝な表情を浮かべた。

「あなた誰ですか?」

あれ?マツウラ君だよね?と聞くと男性は首を振った。

「違いますけど…」

不審者でも見たかのようにそそくさと去っていく男性の後ろ姿を眺めながら僕は立ち尽くした。

今しがた見たはずの男性の顔が、元会社の同僚のマツウラ君に似ていたのか、それとも大学の後輩のマツウラ君に似ていたのか、それが思い出せない。

僕は一体どちらのマツウラ君と勘違いしていたんだろうか。

眩暈がしてきてふらふらと歩きだす。

駅前までくると広場で何かの催し物がされているようで多くの人が行き交っている。

僕はその少し離れた場所にある街路樹の近くのガードレールに腰を下ろした。

遠くにマイクを持った女性が何かを喋っている。
彼女を取り巻く人だかりが嬌声やら歓声を上げている。
そして僕の目の前には左に右に多くの人の波がうごめいている。

その一つ一つの顔をぼんやりと眺めていると、またマツウラ君がいた。

一人や二人ではない。

何十人ものマツウラ君の顔をした人間が目の間を横切っている。

僕は気分が悪くなって人ごみをかき分けて駅に向かった。
何度も人にぶつかった。
ぶつかられた人が「おい!」と叫んで僕を睨む。
その顔は、※※※※※君の顔だった。

駅前広場の人だかりを押しのけて駅の中に入る。
改札を抜けてトイレに入った。

洗面台から水を出して顔を洗い、呼吸を整えた。

※※※※※君って誰だ?

見たことはある。
知っている。
あの顔を知っている。
だがそれが誰なのかがわからない。

ふと視線を上げると洗面台の上の鏡が目に映った。

鏡の向こうにはびしょ濡れの疲れ切った顔の男が立っている。

果たして僕は、このような”顔”だっただろうか。

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